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堺雅人の「半開き」の唇は、彼がこれから何かを話そうとしていることを無意識に察知させ、わたしたちをある種の緊張に誘い込んでいる。それは穏やかで、ゆるやかで、ときとして柔らかくもあるからこそ、多くの場合支配的である。それは演じるキャラクターの性質によって振り分けられるものではない。

たとえば『ハチミツとクローバー』(2006)。若者たちの群像を見守る立場であったはずの彼の役どころは、映画が終わってみれば、ある確かな余韻として、残ることになる。沈殿すると形容してもよい。決して出番としては多いないにもかかわらず、いや、だからこそ、彼の不在は沈殿していた。

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『クライマーズ・ハイ』(2009)では、理想的な部下とも言える新聞記者を力演し、喝采を叫ばれたが、あのときも、把握力に優れた芝居であった。上司、堤真一に忠実のようでありながら、己の意志でそうしていることが感じられる「自律性」の発達したこのキャラクターは、堤に支配されているのではなく、むしろ堤を支配しているようにも思えた。

 

『ジェネラル・ルージュの凱旋』(2009)では戦闘的な医師に扮したが、物語の渦中で窮地に追い込まれていながら、自身を「守る」のではなく、あくまでも「攻める」姿勢を崩さなかった。『ラッシュライフ』(2009)の「泥棒」が、この映画の世界観の中心に位置し、登場人物たちすべてを支配していたことは象徴的だろう。

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堺雅人は「半開き」の唇で、その人物がこれから何かを話し始める「予感」を漂わせながら、映画を、わたしたちを支配する。

その一方で、別な文脈の堺雅人が存在する。それは支配するのではなく、ある世界のはざまでグラデーションのようにたゆたう堺雅人である。