『ジャージの二人』(2008)で、鮎川誠の息子を演じた堺雅人は、鮎川の天然と呼んでいい芝居をひたすら受けとめつづけた。鮎川がピッチャーだとすれば、堺はキャッチャーである。バッターはいない。延々つづく投球練習のなかで、鮎川がどんな豪速球を投げ込もうとも、あるいはどんな暴投をしようとも、それを平然とキャッチし、キャッチボールのように非ドラマティックに、ボールを投げ返しつづけた。そのとき彼の唇が「半開き」になっていたことは言うまでもない。
『ゴールデンスランバー』(2010)の堺雅人も、ひたすら右往左往しながら、巻き起こる事態のすべてを、「半開き」のまま抱きしめつづけた。
こうした堺雅人のアプローチのなかで、もっとも高度な達成を遂げているのが『ツレがウツになりまして。』(2011)であろう。ここでの堺は、タイトル通り、鬱に陥った夫を体現しているが、病や精神を精緻に表現する「攻め」の芝居ではなく、主軸を妻役の宮崎あおいに託し、むしろ妻の果敢な言動をぼんやり体感していく「媒体」のようなキャラクターに徹しており、「半開き」の唇に多義的な解釈を与えるような、開かれた表現に達していた。
9月15日(土)公開
(C) 2012『鍵泥棒のメソッド』製作委員会
『ジャージの二人』『ゴールデンスランバー』『ツレがウツになりまして。』における堺雅人の「半開き」の唇は、何かを喋り出すかもしれない気配ではなく、何も喋らないかもしれない不可能性としてそこにあり、わたしたちは鈍い痛みを抱えながら、彼を凝視することになる。つまり、前述した『ハチミツとクローバー』から『ラッシュライフ』における堺雅人の「半開き」の唇が「開きかけ」の魅惑だとすれば、『ジャージの二人』から『ツレウツ』における堺雅人は「閉じかけ」の唇を露呈させて、わたしたちをドキドキさせているのだ。
秋に連続公開される2本の主演作においては、ここまで綴ってきたふたつの要素がもはや螺旋状に絡まり合っている。まるで動脈と静脈のように。「始末屋」香川照之になりすます演劇青年に扮した『鍵泥棒のメソッド』も、山田孝之に復讐しようとする男の闇を体現する『その夜の侍』も、堺雅人はめくるめく二重性を生きており、その「半開き」の唇は、もはや「開きかけ」なのか、「閉じかけ」なのか、わからなくなる。どちらでもないし、どちらでもある。堺雅人は、そんな場所に、わたしたちを連れていくのである。
主演映画『大奥~永遠~[右衛門佐・綱吉篇]』 [ https://www.ohoku.jp/ ]も待機中。
2012年12月22日(土)丸の内ピカデリーほか全国ロードショー!
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