横浜みなとみらいに今年7月10日に開業した新施設「ぴあアリーナMM」。
普段から多くの市民や通勤者、観光客が行き交い、公演時には最大1万2千人の観客が訪れるそのエントランス前の空間「Motion Corridor(モーションコリドー)」で、7月1日より、映像と音響によるインスタレーションアートの放映が開始された。
約50メートルの通路にある8本の柱には、それぞれ55インチの縦型ディスプレイ2台を使った、巨大な縦長のサイネージが設置。
今後、この環境を舞台に、さまざまなクリエイターの作品が展開される予定だ。
今回は、その記念すべきオープニング作品を制作した3名の映像作家のうち、抽象的な色彩空間が魅力的な「Border Play」を手がけた「Qubibi」の勅使河原一雅、3作品のサウンドを担当した音楽ユニット「□□□(クチロロ)」の三浦康嗣、企画・制作を担ったバスキュールの春日恵、ぴあの平野淳による座談会をお届けする。
街に開かれた実験的な空間における作品づくりで、彼らはどのような点にこだわり、何を考えたのか? そこから見えたパブリックアートの可能性とは?
「若い作家の登竜門的な場を」勅使河原一雅×三浦康嗣×春日恵×平野淳 座談会
ーー 「モーションコリドー」はどんな経緯から生まれた空間なのでしょうか?
平野:もともとみなとみらいは、地上2階レベルにペデストリアンデッキという歩行者用通路が通るエリアになります。
今回、「ぴあアリーナMM」の建設にあたって、お隣の建物と連続したデッキを作ることになったのですが、その際、地上階部分に、通路を支えるための柱の並ぶ空間(ピロティ)ができるため、そこを活かして何かができないかと考えたことがスタートでした。
最初に考えたのは、サイネージを設置して、公演情報や広告を放映できないかということ。
しかし、実はみなとみらいは、街中にデジタルサイネージや広告がほとんどない街なんです。
そこで、ただ公演情報や広告を流すだけではなく、アート作品をメインで流すことによって、街の雰囲気に合った空間にできるのではないかと考えました。
この場所は、公演日には最大で1万2千人の音楽ファンがいらっしゃる場所です。そうした空間があれば、訪れた観客の方にライブ前の時間を楽しんでもらえるのではないか。
また、道路に面したこの場所は、観光客や、この街に在住・在勤する方々も多く行きかうため、きちんとひとつのパブリックアートとして認識される場所を作ることで、コンサートの有無にかかわらず賑わいを創出したいと考えました。
——そうしたなかで、勅使河原さんに依頼をされたのはなぜだったのですか?
春日:個人的にお仕事をしたのは今回が初めてだったのですが、勅使河原さんにはいままでもバスキュールの仕事に関わっていただいたことがあり、安心感があったんです。
それと、モーションコリドーのそもそもの考え方として、今後、あのサイネージで作品を発表したアーティストの数がどんどん増えたとき、若い作家の登竜門的な場所になったらいいなという思いがあって。
そう考えたとき、まず最初は、アーティストや感度が高い人がみんな知っていて、多くの作家が目指す存在である勅使河原さんだろう、と。
勅使河原さんには最初にオーダーしましたね。
みなとみらいとの関連性を積み上げることから始まった作品作り
——勅使河原さんは過去にも公共空間の作品を手掛けていますが、今回、モーションコリドーという新たな場所に作品を作るに当たり、どのような切り口で制作を開始されましたか?
勅使河原:はじめに考えたのは、みなとみらいと自分の繋がりについてです。
制作をする時は、自分との繋がりを沢山見つけて動機にしたいというのがまずあるんですが、今回は特定の場所での作品というのもあるし、まずはみなとみらいとの接点が欲しかった。
それと、当初から抽象映像を見たいという、春日さんからのオーダーがあったんですよね。
僕は以前から境界線をテーマにした抽象映像を手掛けてきたんですが、オーダーとはいえ、みなとみらいでそれをやる自分なりの根拠を見つけたかった。
実はみなみとみらいにはよく訪れていて、気持ちが浮かないとき、臨港パークという公園でビールでも飲みながらぼんやり海を見ることが年に数回あるんです(笑)。
今回もそんな感じで海を眺めてみれば、やっぱりそこには陸と海、海と空で境界線があるわけです。
そもそも境界線なんてどこにでもあるんですが、探す過程での自分の選び方によって見えてくる輪郭があるんです。
そうやって少しずつ自分とみなとみらいの関連性を積み上げることから始めました。
8本の柱それぞれを、まるで違う作品にした
——実際に完成した作品も、8本の柱にそれぞれ異なる8種類の色面のパターンがあり、その色彩同士の境界線がまるでアメーバのように変化する映像になっていますね。
勅使河原:こうした抽象映像はもう長年やっていて、ともすれば自分にとっては新鮮味のない作業になってしまう。だから、この制作がそうならない為にはどうしたら良いか悩みました。
春日:制作に併走していて面白かったのは、勅使河原さんが今回の完成作を「Ver. 0.5ぐらい」とお話しされていたことです。
一見、仕上がっているように見えますが、じつは個々の作品を発展させようと思えばできる余地を残している、ということですよね。
勅使河原:これらは謂わば制作の途中途中で生まれたものなんです。例えば、出世魚って成長につれて名前が変わってお店に並ぶじゃないですか。あれと同じようなもの。だから、どれもこれも途中ともいえるんですよね。
モーションコリドーは8本の柱とその位置関係があるので、まずはそれを活かすことが考えられると思うんです。
柱から柱になにかが動いて連鎖したりとか、そういうことですね。ただ、抽象映像って効果とか役割を持つと格好悪いと思っていて。
最終的には「見る人がそれぞれの柱に興味をもち移動していく」ということさえ叶えばそれで良いのだから、いっそのことグループ展のように色んな作家の色んな作品が並び色々楽しめますよといった状況を作れないかなと。
ああいうのって作品によって方向性やクオリティに差があったりするけど、バラけ方が体験に立体感を生み出してると思う。
そうして、作業ログ的に吐き出すことで沢山作ろう、ということになりました。
春日:8本の柱をまるで違う作品にしたのは勅使河原さんだけですね。
勅使河原:短い作期間を踏まえての取り組み方ではあったんですが、最後は出し殻のようになってました。
「8本の柱がある空間」のなかで生まれる“音の体験”
——いっぽう、三浦さんに声かけられたのはどんな経緯だったのでしょうか?
春日:三浦さんも過去にバスキュールの仕事をいろいろやっていただいていて、楽しみながら一生懸命やってくれるというところで信頼感がありました。
そもそも、三浦さんは音楽に関しては非常に突出した存在だと思うんですね。
今回のような、8本の柱からなる特殊な空間における音の作り方についてもすごい熱心に考えていただいて、入っていただいてよかったと思いましたね。
——依頼のかたちとしては、最初に尺を決めて、といったあたりから進められたのですか?
春日:いや、今回はとくに尺を設けなかったんです。
というのも、広告ならば15秒や30秒という時間的な尺があるわけですが、それをしてしまうとアートではなくなってしまうと思ったので。
それぞれのアーティストは、時間は自分たちで決めてくださいとオーダーしましたね。
——そうなると、映像と音楽の兼ね合いも余計に複雑になりますね。三浦さんと勅使河原さんのあいだではどのようなやりとりがあったのでしょうか?
三浦:今年の頭くらいにテッシー(勅使河原)と初めて会ったとき、最初に話したのは、映像と音を同期させるのは簡単だけど、それだとコマーシャルっぽくて面白くないし、アートと遠ざかるよねということでした。だったら、それぞれどんな映像と音を作るのかを考えず、テンポだけを決めてあとから合体させたら面白いんじゃないかと。
そういうコンセプトを立てましたね。
—— それは、3作家の作品ともそうですか?
三浦:もともとは、3本の映像に合わせてすぐ3つの音楽を作るのも難しいから、いろいろな音のパーツを作っておき、その組み合わせでバリエーションを作ろうとしました。
ただ、やはり映像が出来るとそれに寄り添いたくなるというか。あと、現実空間で流してみると、細かな音がぜんぜん映えないことがわかったりして、ほか2人(井口皓太・RYOJI YAMADA)に関してはあとからだいぶ変更しました。
一方、テッシーの作品の音楽には、当初のコンセプトが生きています。
勅使河原:三浦さんとは、最初の話し合いをしたっきりで、あとは制作中に手紙のようなメッセージをバスキュールさん越しに1、2回送ったのみです。
どんなものが出来てきても良いかなと思っていました。実際にちゃんと曲を聴いたのも納品の後ですね。
「その場にいるとなんか気持ちが良い」とか、そういう感覚が重要
—— 一定のリズムが印象的な音楽でした。
三浦:特徴的なのは、テッシーの映像が10秒単位だったことです。
一般的なポップスは大抵4小節や8小節や16小節で、5小節となる10秒はあまり馴染みのある単位ではない。でも、普段とのズレの感覚があるのはアート的だし、10秒は明らかに時報を意識していることがわかったので、時報の要素を入れました。
テッシーの映像自体が、細胞がウニョウニョと自ら分裂するような感覚のあるものだったので、自分の音楽も映像から自由に作った実感がありますね。
春日:勅使河原さんの作品の音楽は、ある柱の前で聞こえた音にほかの柱の音がどんどん混ざり合っていくようなセッション的な感覚があり、そこもすごく面白かったです。
三浦:「8本の柱がある空間」というキャンパス全体で、音の体験を作ろうとしました。
あれだけ広い空間の場合、聴こうとしても全貌は絶対聴こえないんですよね。それが重要だなと。
公演前の行列を作るお客さんは、少しずつ前に進むわけですが、位置によって音の経験が変化し続けるものを作りたかった。
語弊があるかもしれないけど、モーションコリドーのような複数の場所で空間的に流す音の場合、一本の柱にすごく意味を込めることは重要ではないと思うんです。
そうではなく、「その場にいるとなんか気持ちが良い」とか、そういう感覚の方が重要で。
勅使河原:映像は、柱と柱に距離があるので、対峙している作品以外はほぼ見えないんです。
音は状況によって混ざり合うけれど、映像はどこまでも個として保持される印象があります。