ハヤシライスが届いた瞬間、テーブルの上に花が咲いた。しっかりと炒めた牛肉にタマネギやマッシュルームを加えて煮込んでドゥミグラスソースの芳しい香りが立ち上ったのだ。
じつは、このときよそ見をしていて料理が届いたことにまったく気づかなかった。
けれど、ある瞬間華やいだ、甘い香りが漂いはじめ、ハヤシライスが登場したことを鼻孔がしっかりと察知した。
『ランチョン』の「ハヤシライス」(1200円/以下すべて税込)は、それほど鮮烈で濃厚な香りなのだ。
ところどころに黒い粒粒が混じっている。おそらく牛肉を炒めたときにできたものだ。
つまり、それぐらい香ばしくなるまで時間をかけて丁寧に牛肉を炒めているのだと思いたい。
洋食屋が誇るハヤシライスだと言っても過言ではない。
明治42(1909)年創業の老舗洋食屋
ランチョンがある神保町は本の街であり、カレーの街としても広く知られている。
けれど、カレー屋が軒を連ねるはるか以前の明治42(1909)年、1軒のビアホールが産声をあげた。洋食とビールを提供するランチョンが開業したのである。
創業当初、屋号はなかった。単に西洋料理店として営業していた。
その後、常連客だった東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)の学生が「名前がないと不便だ」という理由で『ランチョン』と命名してくれたというのである。
開業当時の写真はないが、昭和2(1927)年に撮った店の外観写真が飾ってある。
店の入口に『ランチョン西洋御料理』という文字が刻まれたセピア色の写真だ。その隣には、昭和30(1955)年と昭和48(1973)年に撮った店の外観写真も並んでいる。
洋食とビール好きから愛されて114年。そのなかには神保町界隈に数多ある出版社の社員も多い。
軽くビールを飲みながら夕飯を食べるとなると真っ先に向かうのが、ランチョンだといっても過言ではない。
神保町の出版社でライターをしていた私は、編集部といっしょに何度もランチョンで夕食を食べてきた。そのひとつが、ハヤシライスだ。
もちろん何杯もビールを飲んできた。この店の名物は「生ビール」(700円~)なのだが、ビールを注げるのは店主だけだということを今回初めて知った。
現在ビールサーバーの前に立つのは、4代目店主の鈴木寛さんである。