「お互いを排除しないこと」が当たり前
――先ほど、学食で生徒さんたちの様子を見させていただきましたが、本当に個性豊かですよね。学生服を着ていると、学生とひとくくりにしてしまいがちですが、こちらの生徒さんは、もう大人と変わらないな、個として存在しているな、と感じました。
中野「そうですね。音楽祭などの行事は、みんなで頑張ることが好きな子は好きです。しかし、そうでない子も絶対にいるんですよ。ですが、何が双方に共通しているかっていうと、お互いを排除しないってことなんです。
私の子どもの頃はそれなりの自己中心性がありました。相性の合わない同級生のことを、“あいつさえいなければ”みたいに思ったり。しかし、この学校の子たちは学年が上がるにつれて、相手が同じ空間にいるってことが前提として、どういう関わり方をしていったらいいか、と考えるようになるんですよ」
――クラスメートなら、一緒にいるしかないですもんね。だったら、どうすれば自分も相手も快適でいられるか、それは頭を使いますよね。
中野「それはすぐに答えは出ないんですが、時間が経つと、みんなやわらかくなるんです」
――それまで公立に行っていた子たちが、いきなりここに入って、自由に戸惑う子もいるのではないでしょうか。
中野「それはありますね、自由に溺れてしまう子。どこまでやっていいのか、やってはいけないのか、わからないんですよ、きまりがないから。
だから、いろいろなものとのちょうどよい距離を、自分で試行錯誤しながら探さなければいけません。距離の取り方を間違えることで、友だちを傷つけてしまう子もいます」
――そういう時はどうするんですか?
中野「そういう時は必ず話をします。本人の事情や理由も聞いた上で、いったい何がいけなかったのかということを、話し合いの過程で“自分の課題”を確かめていきます。
入学してから夏休みまでの日常は、特にていねいに見ないといけません」
「そう、びっくりするくらい優しいですよ、ここの子どもたちは」
――では春から夏にかけては、今まで自由を知らなかった子たちが自由を知ることによって起こる、いろいろなことの調整の時期、という感じなのでしょうか。
中野「そうですね。ただその年によって、まったくトラブルの起こらない学年もあったりして…必ず春はなにかしらトラブルが起こるものなんですが、ある学年は、何も起こらなくて、逆に心配になるくらいでした。
ですが、得てしていろんなことを乗り越えてきた子どもたちの方が、集団として育っているという気はしますね。おとなしいと、おとなしい方法を身につけてしまって、何もしなければ何も起こらないだろうみたいな風になっちゃうんですね。
何もしない方が、自分の意見は出さない方が、というやり方が身についてしまうと、この学校を楽しみ切れないんじゃないかな、と思います」
――逆に楽しむには、どういうあり方が望ましいのでしょうか?
中野「早いうちに自分の心を解放することでしょうね。本性を出すとぶつかりますから、ぶつかりあう中で、自分のまずさに気がつくんです。
何もトラブルがないと、そういう気づきがあまり生まれないんですよね」
――「集団として育つ」といわれたのが新鮮でした。普通の学校だと、管理するためには集団を使いますが、その実、数字で競争させたりするのって、極端にいえば「自分さえよければ」というマインドになりがちだと思います。
こちらの学園では、クラスが一つの生命体のような感じで、誰かに問題が生じると、他の子が放っておかない力が自然と作用する、ということでしょうか?
中野「最初、自分のことばかり気にしていた子たちが、だんだんクラスのあり方まで考えるようになったりして。“クラスをよくしたい”って子も出てきます。
どういうふうによくしたいのかって訊くと、みんなが安心していられる空間をつくりたいだとか、誰にとっても居場所がちゃんとあるような、なんて言うんです」
――へえー、優しいですよね。
中野「そう、びっくりするくらい優しいですよ、ここの子どもたちは」