うちの学校では“先生”と呼ぶ習慣がない
――やっぱり人って、優しくされるから優しくできるっていうところがありますよね。現代の大人は抑圧されすぎているから、たとえば大の大人が駅でケンカになったりしますよね。ここだと、抑圧がないから余裕があって、人にも優しくできるんでしょうか。
中野「そうですね。ただ、それはこういうプログラムをやっているからこうなるっていうのはあまりなくて、この学校っていう場に身を置いておくと、自然にそうなっていくっていうのが正直なところなんです」
――今日、伺ったときに、すごくいい空間だなと思いました。山に囲まれた一帯で、静かですし。
中野「学校を取り巻く自然環境、緑の景色もそっくりそのままいただいて、ここにいる子たちは育っていくんでしょうね」
――学食でも思いましたが、みんなリラックスした、いい顔をしていますよね。
中野「そうですね。人なつっこいというか、人に対する警戒心があまりない」
――先生に対しても対等だと聞きました。
中野「私、呼び捨てで呼ばれていますから」
――へえ!
中野「うちの学校では“先生”と呼ぶ習慣がありません。○○さんとかあだ名で呼ばれています。入ったばかりの子は、最初、私のことを校長先生とか呼ぶ子もいるんです。私はそれが嫌で、呼び捨てでいいよって言うと、え?って顔をします。“そんなことできません”と言う子もいます。
これは極端な例ですが、“できません”を通して、その子が縛られてきたもの、自分で自分を縛ってきたものを、ほどきたくなってくるんです」
――先生方もユニークな面々が多いのでしょうか(笑) 授業の進め方も、教科書中心でなく、独自な展開をするとお聞きしました。中野先生にとってはそれが大変というより、楽しいのかな、と思ったのですが。
中野「そうなんですよ! よその学校の校長は授業をしないようですが、やらないと子どもが見えなくなってしまうし、授業をどうやって作っていくかってことを毎日考えると、楽しいんですよねえ…生徒たちの顔が浮かぶんですよね、こういう質問したらこの子はきっとこう答えるんだろうな、とか」
――校長先生も担当科目を持っているのですね。こんなに目のキラキラした大人の方とお会いするのは久しぶりでした。今日はどうもありがとうございました!
自由の森学園での“自由”とは
この後、中野校長先生に校内を案内してもらったのですが、行く先々で、生徒たちが「よっ」という感じで中野校長先生と挨拶を交わしていたのが、とても印象的でした。
学校のいたるところに生徒たちの作品があふれています。それは、壁画だったり、ツリーハウスだったり、一枚板の教卓だったり、さまざま。ツリーハウスは、生徒たちが言い出して数日間で完成したのだとか。
その過程を聞いて思ったことは、自由とやりたい放題は違うということ。
生徒たちは、やりたいことができると、まずそれを実現するのには何が必要か、誰の協力と理解が必要かを考え、行動します。その結果、やりたいことができるわけです。
自由の森学園での“自由”とは、「自由であるためにどうするかを自分で決められる権利」なのだと思いました。
そういう意味では、筆者も含め、一般の学校教育しか知らない人たちは、自由の本当の意味を知らないのかもしれない、と思わされました。
きまりがないということは、自分たちできまりを作っていかなくてはいけないということ。その「自分たち」の中には、いろいろな個性があり、そのどれも排除はしない。
大人でも難しいことを、自由の森学園では十代のうちに自然に学んでいくのですね。
【取材協力】
中野裕(自由の森学園 中学校校長)
自由の森学園の卒業(2期生)。在校時は音楽(ピアノ)にどっぷり浸かっていて先々もと考えていたが、やりたい表現と学ぶ場とがつながらず、断念。もともと好きだった数学の方に進む。数学系の大学・大学院で「代数学」を学ぶ中で、いろいろな数学観や教育観が自分の中につくられていく。
たまたまやってきた自由の森学園での非常勤講師となる機会を得、96年から授業をする立場で関わりが始まる。00年度に初めて高校の担任(16期生)、03年度に2回目の担任(19期)、06年度から中学の副担任・担任を経、09年度から現職。数学の授業をしながら、素人音楽で中高生たちと遊ぶ。
自分自身がそういえば時間のかかる育ち方をしてきたなぁという経験から、「人が育つにはそれなりの時間がかかるものだ」という実感を持っている。