2: 相手の「こうしたい」を受け入れることができない
たとえば、自分は毎週末会ってデートがしたいけれど、相手には一人で過ごしたい気持ちがあったり趣味に時間を割きたかったり、自分とは違う要求を持つことがあります。
そんなときに、相手の「こうしたい」が違うというだけで「好かれていないのだ」と悲観的になったり、「自分勝手だ」と責めたりするのは、自分のことしか考えていないといえます。
それを相手に伝えて自分に付き合わせて一緒にいることが、果たして本当の充実といえるでしょうか。
「こちらに合わせるのが愛情の証」と本当に考える人がいますが、それでは自分も相手の要求に従って別にあったやりたいことを我慢して付き合うのか、その自分は相手といて幸せだと思えるのか、疑問です。
相手の「こうしたい」が自分と違うとき、あたたかい愛情があればまずその気持ちを尊重します。
「そうなのだね」と受け止めたうえで、「それなら来週は一緒に過ごせる?」など前向きな提案ができるのは、相手が大事にしたいことを等しく自分も大切にしたいと思えるから。
その姿が相手にとっては大きな安心となり、「◯◯時には終わるからそれから会おう」と別の提案が出てくるなど、こちらの一緒に過ごしたい気持ちもまた尊重してくれるものです。
相手の「こうしたい」を受け入れることができないのは、愛情ではなく自分の満足がメインの執着になってはいないでしょうか。
3: 自分の気持ちを「100で受け止めるのが正解」と思っている
相手を強く思えば思うほど、向ける感情を「すべて完璧に受け止めてほしい」と願うのは、誰にでもあることです。
好きだからこそ「受け止めてほしい」と思うのであって、どこでその実感を得るかといえば、「同じように愛してると言ってほしい」「同じようにこれをしてほしい」など、相手のリアクションが不可欠になります。
自分はこう返してほしいと思うのに相手は別のやり方をした、または望む言葉をくれなかったなど、「受け止めてもらえなかった」と感じたときに、強い不満と怒りが執着を育てます。
相手の本音や本心を知ろうとせず、「100で受け止めてくれなかった」だけで「本当は好きじゃないのだ」など責めるのは、愛情とはいえません。
自分がどんな思いを抱えようと、それをどう受け止めるかは相手の自由であり、操作することはできません。
自分だってそのはずで、一方的に「好きならこう返して」と望まれても自分の気持ちと違っていれば、従えないですよね。
関係は対等であり、お互いに受け止め方も返し方も違うのが当たり前、まずはその在り方をまっすぐ見るのが愛情ではないでしょうか。
相手の感じ方を知り、「これがこの人にとっての100なのだ」と理解することが、あたたかい愛情を失わないための道です。
4: 自分への愛情の確認ばかりしたがる
自分が向ける気持ちやそれを伝えることより、こちらに向けられる愛情や関心の大きさばかり確認したがるのも、執着といえます。
「好き」と伝えるより好きと伝えてくれるかどうかを見る、「好きならこうするはず」の思い込みで相手の言動を探る、そんなネガティブな気持ちは、その人と前向きな関係を続けていきたいと思えばできません。
自分への愛情の確認に躍起になるのは、自信がないからです。
「相手に好かれている自分」を実感することで心が大きな充足感を得るのは誰もが同じですが、それを求め過ぎて「伝える側」になることを忘れると、相手は向ける愛情を奪われる一方になります。
伝え続けないと不機嫌になる、そのくせ自分が「好き」を伝えることはしない、そんな関係は健全ではなく、片方にばかり負担がのしかかります。
あたたかい愛情は、まず自分が伝える側になることを避けません。
素直に気持ちを伝えていくこと、愛情を届けることは自分がそうしたいからであり、「それができる自分」に自信を持ちます。
「先に愛情を伝えてくれないと何もできない」ような状態は依存であり、叶えてくれない相手を見て怒りや寂しさをぶつけるのは、愛情ではなく「こうあるべき」の執着に囚われているといえます。
そんな自分を見て相手はどう思うのか、の視点を忘れずにいたいですね。