相手をしないことに罪悪感を持たない
一方で、フキハラを当然にする人ほどほかの人が不機嫌になっても声をかけないし、「何あれ」と眉をひそめて非難するのもよくあることです。
自分がそんな人間の機嫌を取る側にはならない、それは相手をしない自分に罪悪感を覚えないからです。
自分の状態は当人が何とかすること、不機嫌さを撒き散らすのは迷惑な行為、フキハラを「される側」になるときっぱりとそう思うのですね。
問題なのは、「自分がそうなら他人も等しくそう思う」という意識がフキハラをする人にはないことで、他人を放置する自分のままで周囲からの助けを期待すること。
心の安定を維持することを他人に依存しているため、機嫌を損ねた自分が放置されるのはおかしい、と当たり前のように思っています。
ですが、自分が他人のケアをしないのであれば人が自分をケアする道理もなく、そもそも自立していれば不機嫌な自分など周囲には見せないのが成熟した心の在り方です。
フキハラをする人は構ってこない人間を責めたり憎んだりしますが、相手をしないことに罪悪感を持ってはいけません。
家族であれ友人や恋人など身近な存在であれ、自分の状態に責任を持つのが大人であり、その自分を見せるから相手との間に愛情や信頼が育ちます。
近い仲ほど健全な境界線が居心地のいい関係には重要で、相手のフキハラを許すと心が許容範囲を超えて近くなり、一方的な負担が増えれば前向きに関わる気持ちは失われていきます。
その人はなぜ自分への救いの手を当たり前にしているのか、どんな関係性であっても不機嫌のような圧力でもってこちらを動かそうとするのは、健全ではありません。
ネガティブな自分を前に出して機嫌を取らせようとするのは依存であり、付き合うとその役目をずっと負わされるため、きっぱりと「やらない」と伝えることも肝心です。