『ブルー・ライト・ヨコハマ』誕生秘話

いよいよここで、『ブルー・ライト・ヨコハマ』の詞を作った時のことを話していただいた。

当時、いしだあゆみさんの曲を3曲、頼まれていた。その時、コンビを組んでいたのは作曲家の筒美京平先生。青山学院の先輩後輩の間柄で、学生時代から良く知っていて、感覚的なものがすごく似ていたという。

1曲目は、そこそこヒットしたものの、2曲目はまったく売れず、次がダメだとかなりまずいという雰囲気の中、橋本先生は、以前から魅力を感じていた横浜の歌にしようと考えた。

 

1962(昭和37)年、港の見える丘公園と臨む街並み(横浜市史資料室所蔵横浜市各課文書)

夜、港の見える丘公園に立って横浜を眺める。当時の横浜は真っ暗でさびしい風景で、川崎の工業地帯に灯りが見えるだけだった。

けれども、この夜景をクイーンエリザベス号のような客船で横浜に訪れる外国人は、どんな気持ちで眺めるのだろうか・・・。橋本先生は、そう思いめぐらせた。

バンドグループのブルー・コメッツと一緒にヨーロッパに初めて行った際、夜のカンヌに降り立った時のことが思い出された。カンヌの空港は滑走路が海に突き出ていて、海から陸地に向かって降りていく飛行機のなかから見たカンヌの街の灯りが素晴らしかったことを。

海と街の灯り・・・。橋本先生が見たカンヌの夜景を思い描くことはできないが、同じ港町、どこかしら、横浜と相通ずるものがあったのかも知れない。

 

1966(昭和41)年、キャンベラ号が入港時の山下公園(横浜市史資料室所蔵広報課写真資料)

橋本先生は、シルクホテルがとても好きだったそう。「絹のホテルなんていう名前がつけられるのは、横浜以外にはないよね」と橋本先生。

レコーディングを翌日に控えた夜、ホテルの一室で、筒美京平先生から電話を受ける。書き上げたばかりの「ブルー・ライト・ヨコハマ」の1番の歌詞を伝えたのは、その時だった。