名曲のバックボーンとなる、横浜の歴史
米軍住宅を前に、街が発展した本牧も思い出の場所のひとつ。20代前半のころ、よく足を運んだそうだ。
ちょうど先生が『ブルー・ライト・ヨコハマ』をつくった前後のころ。米兵たちがお酒を飲みに来るだけでなく、外国にあこがれて東京から遊び人が集うような店が多くあった。「リキシャルーム」や「イタリアン・ガーデン」、「ゴールデン・カップ」、「LINDY」など、当時の最先端の音楽が流れ、アメリカンな雰囲気が漂う、後に“伝説の本牧”と語り継がれる時代である。
「リキシャルームには、夜中の2、3時くらいにタレントと一緒に来て朝までいたね。何百回も行った、ホントにおもしろい店だったよ」と先生は言う。
そして、幕末に外国人居留地となった山手は、異国情緒漂う街並みを残す。その外国人の生活圏として商店街が発達した元町は、戦後もいち早く復興し、米兵やその家族が買い物に訪れる街となっていた。
また、先生がもうひとつ印象に残っている、という伊勢佐木町は、明治初めから続くハマ随一の繁華街だったが、米軍による接収解除後の昭和30年代は、まだあちこちに米兵や外国人船員などの姿が見られる歓楽街だった。
「東京に住んでいても、横浜はおもしろいところだと感じていた。あのころは、もっと暗い、尖った、危ない人たちが集まってくるような街だった」と先生は話す。
そうした実際の横浜を知らなくても、童謡『赤い靴』に、「赤い靴、履いてた女の子、異人さんに連れられて行っちゃった」と歌われるイメージそのままに、外国の文化と接点がある街として、人々は横浜にあこがれを抱いた。海外旅行など、ほとんどの人にとって縁のない時代のことである。
ちなみに、日本初の海外パッケージツアーブランドである「ジャルパック」第一弾の発売が日本航空によって開始されたのは、1965(昭和40)年のこと。最初のツアーは「ヨーロッパ16日間」、現在の貨幣価値に換算すると1人700万円という超高額なものだったという。