「西洋にあこがれ、人々が幸福になっていこうとする時代に合っていたのだろう」
いしだあゆみさんは、フランスの女優カトリーヌ・ドヌーヴみたいな女になりたいと口にしていたとか。外国への強いあこがれの気持ちは「ブルー・ライト・ヨコハマ」を歌ういしだあゆみさんの内面にも込められていると、橋本先生は言う。
意外にも『ブルー・ライト・ヨコハマ』は、前評判の悪い歌だったそう。当時斬新なサウンドを受け入れられる素地はなく、カタカナを使ったタイトルや歌詞も不評。横浜の販売店では、全くレコードを置こうともしなかったという。ところが、世の中に出て、1ヶ月で100万枚を超えるヒットになった。
西洋にあこがれ、人々が幸福になっていこうとする時代に合っていたのだろうと、橋本先生は言う。人の気持ちの奥底に触れる歌の力がそこにはあった。
時代は流れ、横浜は明るい観光地になった。
橋本先生が、港の見える公園から今の横浜を眺めたら、『ブルー・ライト・ヨコハマ』は生まれなかったに違いない。横浜の夜景は、とても美しいけれど、『ブルー・ライト・ヨコハマ』が醸し出す、どこかメランコリックな雰囲気とは重ならないように思う。
けれども、『ブルー・ライト・ヨコハマ』が今の時代に生き残るとすれば、西洋と接点のあった昔の横浜の残像がどこかに残っているからだろうと、橋本先生は言う。
横浜が、どこにでもある観光地とどこか違う、異国情緒や突き抜けた何かを持っていると、たぶん・・・、横浜市民の多くは思っている、知っているのだと思う。
取材を終えて
『ブルー・ライト・ヨコハマ』は、亡き母が大好きな歌だった。幼いころ、繰り返し聴いたこの歌は、今でも不思議なほど自然に口ずさむことができる。その作詞家の方に、お目にかかることができる日が来るなんて思ってもいなかった。
お忙しいなか、遠方からわざわざ横浜までお越しくださった先生。それだけでも大変にありがたいのに、私たちに「今はスマホやPCなどの機器をからインターネットで情報を享受し、前情報をもとに作品を試聴する時代になった。
情報サイトを運営するきみたちは、ただ大量に情報を流し続けるだけでは意味がない、人の心の奥底に触れるようなものを発信していかなければダメだ」と熱心に、かつ温かく励ましの言葉までくださった。
昭和歌謡が人々の魂を揺さぶったように、人の心に触れ、動かすものを発信することができると信じ、精進していきます。
―終わり―
〈参考文献〉
「横浜ノスタルジア 昭和30年頃の街角」 横浜開港資料館(河出書房新社)
「横浜タイムトリップガイド」 横浜タイムトリップ・ガイド制作委員会・編(講談社)
「横浜クロニクル ハマの暮らし年代記」(横浜信用金庫)
※本記事は2014年5月の「はまれぽ」記事を再掲載したものです。