いじめを苦にして自殺した子どものニュースなどを聞くと、子どもを持つ親としては、たまらない気持ちになりますよね。
誰しも、我が子にはいじめっ子にも、いじめられっ子にもなってほしくないと思うもの。取り返しのつかないことになる前に、どういうメカニズムでいじめが生まれるのかを知っておくことは、有意義だと思います。
また、もし我が子がいじめられていると気づいたら、どう対処していったからいいのかについても、荻上チキさんの『いじめを生む教室 子どもを守るために知っておきたいデータと知識』を参考に、考えていきたいと思います。
いじめ報道はこの40年進化していない?
日本では1980年代からいじめが社会問題化していますが、いじめは問題だということは浸透しましたが、ではどうしたらいじめはなくなるのか、というところまでは議論が進んでいない、メディアの報道に至ってはほとんど進歩がないと、荻上さんは指摘しています。
いじめ問題がメディアに取り上げられると、最近よく聞かれるのは「いじめは犯罪」ということと、「自殺するくらいなら逃げればいい」という極論です。決して間違ってはいませんが、果たしてそれがいじめを減らすことにつながっているのか、と荻上さんは疑問を投げかけています。
ニュースになるほどひどいいじめではなくても、小さないじめの芽は子どもたちを取り巻く環境にいくつも転がっています。
『いじめを生む教室』は、2011年の大津市中2いじめ自殺事件を契機に市が実施したアンケート調査などから、具体的なデータが豊富に紹介されていますが、そこから見えてきたこととして、「いじめはエスカレートする」という傾向が挙げられています。
初めは軽いマウンティングから始まったいじり/いじられが、時間が経つにつれ、暴力、金品の要求、大勢の前での辱しめにまで発展することも。
被害者が自殺して初めて公になるだけで、逆に言えば、ニュースになるいじめは氷山の一角でしかないといえるでしょう。だからこそ、いじめ対策には、予防と早期発見・早期対応が重要になる、と荻上さんは述べています。
今のいじめ対策では足りない!
従来のいじめ対策というと、真っ先に思い浮かぶのは、道徳の授業ではないでひょうか。2018年からは教科化しています。
まったく効力がないとは言えないかもしれませんが、大津市のいじめ自殺事件が起きた中学校は、文科省の「道徳教育実践推進事業」の指定校だったというのですから、効果を疑いたくもなります。
道徳の授業が教科化することで、教員がさらに忙しくなり、生徒と向き合う時間が減るのであれば、それこそ本末転倒だと荻上さんは書いています。
また、いじめが発生したときに、犯人探しをするようにいじめっ子を見つけ出し、罰を与えればよい、というのも乱暴な対処法です。なぜなら、いじめは誰でも被害者になる可能性があるからです。
確かに、いじめに遭いやすい「ハイリスク層」も存在しますが、いじめをする側の理由には、「いじめなければ自分がやられる」「なんとなくやらなければならないような雰囲気になっていたから」といったことがあることから、いじめられるかいじめるかは紙一重であることがわかってきます。
親として子どもに言えることを考えてみたとき、ただ「いじめはダメだよ」と言うだけでは、足りないのかもしれません。では、どう伝えていけばいいのでしょうか。
いじめにはホットスポットがある?
日本のいじめの発生場所についてアンケートを取ると、ほとんどの調査で「教室でのいじめ」が一番多いという結果が出るそうです。その割合は次点の「廊下や階段」の倍を、遥かに上回っています。
つまり、日本でいじめ対策をするには、まず教室でのいじめを減らすことが重要となってくると言えるでしょう。ではなぜ教室でのいじめは多いのでしょうか。
荻上さんは、配置される先生の数の少なさ(一つの教室につき1人だけ)と、日本の学校という特殊な空間にその原因があるとしています。
特殊というのは、たとえば、授業と授業の間の10分程度の休み時間は、休み時間とは名ばかりで、多くの学校では「教室から出てはいけない」というルールがある時間なのです。さらに、飲み物を飲んだり、漫画を持ち込んだりすることは禁止されています。
これではどうやって、子どもたちは一息つけるのでしょうか。
授業のストレスを解消すべき休み時間に自力でそれができないために、その矛先が特定のクラスメイトに向くことがいじめにつながるのでしょう。初めは単なるいじりやからかいだったのが、徐々にエスカレートする危険性についてはすでに述べました。
いじめには、「いじめが起きやすい教室」と「起きにくい教室」があると荻上さん。それはつまり、いじめの芽は、個人ではなく、環境から生まれるということです。「朱に交われば赤くなる」とことわざにあるように、人の心や中身は環境からの影響を免れられません。
「人の心ばかりを変えようとするのではなく、人が過ごす環境を変えることで、行動の変化を促していく」ような、発想の転換が求められているのです。