コンクール一色の日々から、ポピュラリティな広がりを求めて

清塚信也さん

──清塚さんは、クラシックのピアノ一筋に走ってこられた時期を経て、現在『コウノドリ』に俳優としても出演されていることを含めて、多方面に活躍のフィールドを広げていらっしゃいますが、その原動力になったのは?
 

それは、あまり美談にもならないのですが(笑)。まず、子供の頃からピアノコンクールでの優勝を重ねて、キャリアを築かなければ生き残れないんだと叩き込まれてきて、僕の人生の初めの頃の目標というのは完全にコンクール一色でした。小学校、中学校と本当に必死にただそれだけのために生きていて、良い成績を残せたコンクールもありましたし、高校までくらいはかなり順調にキャリアを積んでいたと思います。

その時期に、中村紘子さんから「ショパンコンクールを目指しなさい」と言われて、それがコンクールキャリアとしては年齢的にも最後の目標になるかな?と思ってやっていたのですが、その最中に嫌気がさしてしまって。コンテストという広場に出されて演奏をして、それが評価されて点数がつけられる。まるで家畜みたいだなと。長くコンクールを目標にした生活をし過ぎたために、虚しくなってしまった。

その虚無感があまりにも大きかったことと、僕は今でもそうなのですが、やると決めたらとことんやるので、当時は1日12時間の練習もこなしていて、コンクールで優勝する為ならばなんでもする!くらいの勢いで生きていて、手にしたもの、成果はなんだったのか?

そう考えた時に、もちろんその経験を経てしか培えなかった技術もありますし、たくさん得たものはありましたが、それでもそれらが僕にとってとても重要だったか?と言うと、さほどではなかったんです。

特にコンクールって、エンタテインメントになっているものではありませんから。ちょうど今ショパンコンクールが終わったばかりですが、ほとんど話題にもならないでしょう?
 

──日本人演奏家が高成績を収めた時に、報道されるくらいですよね。
 

それも例えば1位になったとしても、その瞬間に記事になるだけで、おそらく渋谷の街で「ショパンコンクールで日本人が優勝しました」と言っても、さほど関心を持ってもらえないですよね。下手をすれば「ショパンコンクールってなんですか?」と訊き返されるかも知れない(笑)。それじゃあ意味がないなと思って。

僕はもっと一般の人に聞いてもらえる世界に行きたかった。こんなに大変な思いをして、必死にやって、虚しさすら抱えて、その結果がどんどんマイノリティの方に行くのは、違うなと。

更にコンクールってやはり政治的な面も持ちますから、不正まではないにしても審査員の先生に認められる為には、大会でだけ出会うんではなくて、レッスンも取らないととか、そういうつながりも求めないとならないんですね。そんなすべてがくだらなく思えてしまって。

特にショパンコンクールは5年に1回ですから、その長い期間モチベーションを保つことができなくなって、気づいたら親や、先生や、応援してくださっている方達ばかりが「ショパンコンクールに出すぞ!」と熱中してくれているんだけれども、肝心の僕自身が「たかだかショパンコンクールくらいで」という気持ちになっていて。そこが転機になりました。

もっとポピュラリティに広がるものはなんだろうか?と考えるようになって、その時からですね、芝居の稽古場にも顔を出すようになっていたんです。