“僕が子どもの頃、帽子を取られました。

僕が、返してもらおうとしても、みんなが上手に帽子を投げてキャッチするので、
僕は、みんなの輪の中を、くるくるするだけです。
それをみんなが笑います。

大切な帽子だったので、乱暴に扱われるのがいやでした。
とても悲しかったし、取り返せない自分が悔しかったです。

で、結局、僕は人間を攻撃します。そしてけんかになります。
で、先生に怒られます。

彼らの言い分は「一緒に遊んでいただけす」「ちょっとふざけただけです」「植松君も楽しんでいたと思いました」です。
僕は、泣きじゃくっていて、ちゃんと答えられません。
先生が言います。

「みんな、遊んでいただけだって言うぞ?それを、お前が怒るからダメじゃないか。」

そのとき、僕は、「なるほどね。もう、先生を信じちゃいけないんだな。」と思いました。

以来、僕は、人とかかわらなくなったと思います。


そもそも、ふざけたい人たちに近寄らなければいいのです。
そんな人の仲間にしてもらおうなんて思わない方がいいのです。

僕のパーソナルエリアは、とてつもなく広くなりました。

人間は、相手の気持ちがわからないです。
だから、いじめは、「他人がどう感じたか」をいくら考えても、情報になりません。

「いじめを見た事がありますか?」
=うーん、あれはいじめかなあ、ふざけてるだけかも・・・

「嫌な思いをしている人はいますか?」
=いやー、人の気持ちはわからないし・・・

「いじめられたことはありますか?」
=あれはふざけてたのが、ちょっとエスカレートしただけかも。そんなことを、がまんできない自分がだめなのかも・・・
になってしまうことがほとんどです。

現在の学校では、「いじめ」の定義が曖昧で、しかも、「いじめ」を判断するのは先生や教育委員会です。

先生や教育委員会が「いじめ」を「ただふざけているだけ」と判断したら、「いじめ」は生じていないことになります。
これで、「いじめ」が無くなるわけないです。

そして、「いじめ」ののりこえかたや、「いじめ」の恐ろしさを知らない人たちは、社会に出てから、いっそう大変になります。

つらい思いをしてる人に、
「それは、お前の思い過ごしだ」「気にしすぎだ」「気にするな」と言ってしまう大人が、いかに多いことか。
僕は、助けてくれなかった先生を信じなくなりました。

でも、そのあと、助けてくれる人や、信じられる人と、たくさん出会いました。
一人ではできない事ができるようになりました。

だから、人間でどんな嫌な思いをしても、人間を嫌いにならない方がいいと思います。
この世には、必ず、信じて支えてくれる人がいます。

人間を嫌いになって、関わりを立つと、そういう人と出会うチャンスを失います。もったいないです。
でもね、やっぱり、恐ろしい人はたくさんいます。
そういう人と、距離を置くのも大事です。

そのためにも、沢山の人とかかわって、関わり方を学んだ方がいいと、僕は思います。”

ーー植松努さんFacebookページより


“人間は、相手の気持ちがわからないです。
だから、いじめは、「他人がどう感じたか」をいくら考えても、情報になりません。”

私はこの一文が、いじめの本質をまさに突いていると感じました。
つまり、当事者自身がいじめられていると感じるかどうか、その一点がいじめが存在しているかどうかを決定するものだと思うのです。

しかし、そのことに気付いていない人がたくさんいます。
その結果、いじめがないことにされたり、救えたはずの子どもを救えなかったということが起ってしまっているのではないでしょうか?

少しでも、植松さんの意見が広まり、いじめで苦しむ子どもが減ることを祈っています。

(Conobie)

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