食べ方とは、「生き方」
おそらく多くの人にとって、美食は“非日常”を楽しむためのひとつの手段だ。しかし彼らは、美食を“日常”の中に置き、世界中のレストランに一人で出かけ、写真を撮り、食べては書き、を続ける。
それは実際、華やかな、楽しいだけのものではないだろう。ときに孤独を感じることもあるかもしれない。スクリーンを通して見る彼らの姿は、ただひたすら一つの道を究めようとする“孤高の求道者”のように見える。
何が彼らに、“フーディーズとして生きる道を選ばせたのか?
その背景や事情は様々にあると思われるが、ひとつには、自分をより高めるための方法が“美食”を食べ歩くことだった、ということがいえるだろう。
また、それを知る手がかりとなりそうなコメントが、映画の所々に散りばめられている。
あるフーディーズはこう語る。
「何を食べるかに、生き方が表れる」
「どうせ食べるなら、おいしいものを」
人生の時間は限られている。1日3食を食べるとするなら、単純計算で「3×残りの人生の日数分」しか食べられない。生きている間、あと何食食べられるだろう…と考えると、確かに、「1食1食を大事にしなければ」という焦りにも似た思いが湧いてくる。
本当に価値あるものを探究している人々、という見方も
「美食なんて、ただの道楽だ」と、彼らを冷めた目で見る人もいるかもしれない。
世界には十分な食糧がありながら、飢餓や栄養不良で苦しむ人々が億単位で存在している。「美食に費やすほどのお金があるなら…」と考える人もいるだろう。
けれども、自分のお金をどう使うは個人の自由。それに、すべての人が節制して暮らすことが、世の中にとって必ずしも良いとは限らない。
環境に負荷のかからない方法で生産された農産物は手間がかかる分、コストも上がる。優れた調理技術や伝統の食文化を守るためには、相応の対価が払われるべきだ。
価格が高くても、質のよい食べ物を選ぶ人がいるからこそ、生産者を含む作り手が守られ、環境が守られ、文化が守られるという側面もある。
情報が増え、間口が広がったことで誰もが気軽に高級料理店に行けるようになり、一部の来店客の「マナーの悪さ」も指摘される。一方で、彼らのような人々が「価値のあるものを守っている」と捉えることもできる。
料理の一皿一皿の味をめぐる細かな意見の対立はさておき、5人の“フーディーズ”に共通しているのは、本当に美味しいものを提供しようとする、レストランや料理人への“敬意”だ。
正直なところ、映画を観るまでは、このご時世「なぜ美食をテーマに?」という気がしなくもなかったが、「敬意をもって本当に美味しいものをいただく」という日常の食の選択肢があったことに、あらためて気づかされた。
『99分,世界美味めぐり』
2016年1月30日(土)より 角川シネマ有楽町、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国公開