確かに“自閉症”はネガティブな暗いイメージの言葉です。この障害名により随分と誤解が生まれています。これだけ認知されてきているのに、読んで字のごとく“自閉→自分の心を閉ざしている→鬱みたいなもの”と未だに思っている人がいます。
また「私は若い頃自閉症だった」とか「あいつは自閉症だから付き合いが悪い」なんて平気で言う人もいます。
筆者の息子は知的障害のある自閉症ですが、ママ友から「殻に閉じこもっているの?」「鬱病みたいなもの?」「治療すれば治るんでしょ?」「もっと愛情をたっぷりかけて育てたら?」と言葉をかけられたことが何度もあります。
治癒する病気でもなく、育て方が原因ではないのですが、自閉症の特徴として“外界とのコミュニケーションが上手く取れない”のが現実です。
自閉症の一つの型であるアスペルガー症候群などの軽度の場合でも、たとえよく喋っていたとしても相手の気持ちを推し量ることが困難ですので、察したり空気を読むことが苦手でトラブルになることがあります。
このため相手の気持ちに立つことができず一方的な意思疎通になってしまいます。そういう意味で“自分の世界にいる=自閉症スペクトラム”に入っているのかもしれません。
言葉を変えてもその状態は存在するわけで消し去ることは出来ません。自閉症という名称が永遠に残ったとしても誰もが正しい理解をしている社会になればよいのではないでしょうか。
だからといってひな祭りは女の子の行事だからやめて、子どもの日も男の子の節句だからこれもなくすなど極端になるのはよくないかもしれませんね。
「○○の日」廃止は本当に必要?
近年、ひとり親家庭など複雑な家庭事情を抱える子どもは増加の一途をたどります。
「子どもが悲しい思いをしないように」と父の日、母の日を廃止したり、“家族の日”に替えている園もあります。父親参観日をなくして通常の保育参観にしている園もあります。
でも、そうやって子どもに配慮しても「うちにはパパがいない」「うちにはママがいない」という現実は変わらないわけです。
子どもは毎日、どちらかの親がいない環境で育っているので「うちにはママがいない」「うちはパパがいない。ママ一人で僕を育ててくれている」とちゃんとわかっています。
シングルのママの人の中にも腫れ物に触るように扱われているような感じがして、却って気を遣われ過ぎて窮屈に思っている人もいたりします。
男の子、女の子という括りではなく人間の性には多様性があります。そうなるとひな祭りは女の子の行事、子どもの日も男の子の節句だからやめるなどの考えも出てきます。でも、これも母の日、父の日廃止と同じで、行事だけ変えても“多様性を理解する教育”をしていない限り意味がないと思います。
まとめ
変わらなくても正しく認知されているものがあります。その一つが黒板です。
昔、黒板は黒でした。だから“黒板”という名前になりました。
緑の黒板に変わってからも“緑板(りょくばん)”とはならず黒板のまま。またホワイトボードしかないのに「黒板をみましょう」と生徒に使っても、特に大きなどよめきはありません。
多様性を認める社会でなければ皆が生き生きと幸せには暮らせません。例えば性的マイノリティーである人たちは13人に1人と言われています。それなのに男どうし、手をつないでいたら後ろ指差されるのが日本です。誰にも自分の特性に合わせて“自由”に生きる権利があるのにおかしいですよね。
言葉だけをいじっても理解が伴わなければ意味がないと思います。
異質な者を排除する心を持つのが人です。差別や偏見はいつの時代にもあります。
そこで教育現場の役割は正しい知識と理解をさせることだと思います。皆さんはどう感じますか。