診断には、行動観察しかない
今の医学では採血して数値が出たり、MRIを撮って画像診断できるわけではありません。
発達障害があるかどうか明確な境界線があるわけではなく、その傾向強いかどうか生活にどれくらい支障があるかどうかで診断するしかありません。
だから個性の範疇なのか障害なのか悩むことになるのです。
周りの子どもと比べても「こういう子はうちだけではない。他にもたくさんいるんじゃないの」と思ってしまうものですね。
知的に大きな遅れはないけれども人とは違う脳の仕組みを持つ子ども達は、限りなく“普通”に近いからこそ、親の期待値が高くなってしまうことがあり、子どもたちが苦悩することがあります。
困っているのは子どもではなく“親”
「お友達と一緒に遊ばないと楽しくないだろう」
「他の子どもたちと同様に何でもバランスよく出来るようにならないと可哀想だ」
「色んな場所に出かけたり、行事やイベントに参加するのは普段できないことを経験でき本人も楽しいはずだ」
実はそう思っているのは“親だけ”ということもあります。
当人にとって、子ども達が大勢いる空間は“苦痛な騒音の場”以外の何物でもなかったりします。
また、いつもと違う行事は不安で耐え難いこともあるのです。
「地面の石ころなんて見ていないで皆と遊びなさい!」と無理やり背中を押されても嫌なのです。
何でもそつなくこなすよりも自分が得意な分野に没頭していることが、この上なく楽しかったりするのです。
こうやって我が子の幸せを一番に願っていたはずなのに、いつしか子どもを追い詰め、酷い目にあわせていることがあります。
怖いのは二次障害
けれども、先生や親があるがままを誰も認めてやらず、子どもはやりたいことをやらせてもらえず、普通であることを求められ厳しく接して育てられた場合、子どもの気持ちはどうなるでしょう。
幼稚園でも学校でも叱られ、家でも親から「どうしてみんなと同じようにできないの!」「どうして普通に出来ないの!」と言われ続けたらどこにも居場所がなくなります。
出来ないことばかりあげつらって責め立てることをしていると「自分は生きていても価値がない」と思うようになります。これが毎日続き何年か経過した結果、思春期以降、引き籠ったり、他人に暴力を振るったり、自分を傷つけたり、中には自殺に至る子どももいます。
こうなると個性だとか障害と分けることよりも、今、子どもがどのような状況に置かれて毎日生活をしているのか、生き生きとした楽しい毎日を過ごすことが出来ているかどうかにスポットを当てる方が明るい未来につながるのではないでしょうか。
今一度、立ち返って親が考え直してみること、子育ての方針を変えることを優先させた方が良いのではないでしょうか。