型にハマるのが嫌いで、同じことを二度はしたくない。
「先生が、LINEで“窪田さんの荒い表現がよかった。原作のカネキもそうだけど、常に100パーセントの完璧な人間なんていないですからね”ってメッセージを送ってくださったんです。
僕もカネキのそんな危うい部分が大好きだったし、自分自身も決められたポジションに立ち続けたり、型にハマるのが嫌いで、同じことを二度はしたくない。
そんな微妙なズレを僕も試写を観たときに正直感じていたから、先生からそこを的確に褒めていただいたときはすごく嬉しかったです」
そんな不安とプレッシャーの中で本作に臨んだ窪田の姿は、半分喰種になった自らの運命を受けいれ、大切な人を護るために戦いに身を投じていくカネキと重なってみえる。
「映画の前半のカネキは本当に人格がない。声にも力がないし、会話をしても空気と喋っているみたいに一方通行で反応がない。
そんな彼が、自分を慕ってくれる喰種の少女・ヒナミ(桜田ひより)のお母さん・リョーコ(相田翔子)が人間である喰種捜査官・真戸(大泉洋)と亜門(鈴木伸之)に捕まって、“人間だけが正しいわけじゃない”ということに気づく。
そこから、何も知らなかった彼が、社会や食物連鎖の現実を自分の目で確かめてどんどん成長していくんです」
その言葉はどんどん深く、私たちが無自覚でいる生き物の“命”の話になっていった。
人間と喰種はどこか背中合わせのような気がします
「カネキは“この世界は間違っている!”って思わず叫びますが、本当にその通りですよね。この地球上で、人間だけが朝、昼、晩にきちんと食事ができて、しっかり仕事をして、家族を護ることができる。
人間だけがどれだけ美しく生きることを許されているんだろう? とも思うし、鶏や豚、牛たちがもし会話ができて、人間と同等の力を持っていたら、彼らにとっては僕らがグールなのかもしれない」
半分喰種になったカネキは、人間として生きるか? 喰種として生きていくのか? の選択を突きつけられるが、窪田は「そこでは食物連鎖の原点に行きつくし、人間の本質も描かれていると思います」と強調する。
動物同士が戦って弱者が捕食されるというのが地球の基本的な生態系ですけど、人間は強い動物が弱い動物が狩る光景を見て“可哀想”っていう感情に当たり前のようになる。
でも、それを人間に置き換えた場合には、絶対に自分じゃなくてよかったという気持ちにもなるんですよね。そんな汚い内面は隠して、綺麗な部分だけを見せていけばいいという、世の中に疑問を投げかけている作品なのかと思います」
役者という仕事をしている時点で、たぶん変人だと思います(笑)
窪田はそんな自分の言葉を裏づけるように、役者である自分を例に挙げて話を続けた。
「役者という仕事をしている時点で、たぶん変人だと思います(笑)。役者って自分の中にあるものを出していく、消費していく仕事ですけど、以前あるプロデューサーから“そのやり方をしていると、いつか精神が崩壊しちゃうよ”って言われたことがあって。
確かに自分の中にあるものを出すからプライベートは本当に空っぽになるし、自分が何者なのか分からなくなる。でも、みなさんはテレビやメディアに映っている役に僕の素顔を投影されると思うから、ますます悩む。
それこそ、空っぽになったときは新しいものを入れなきゃとか、もう何も入れたくないとか、世の中やこの仕事がイヤになることも正直あります。
でも、いまはこの生き方しかできないので、もがき続けるしかないと思っていて。時代に合わせてどんどん変わり続けていきたいし、周りからのイメージに逆らいたいという想いもありました。
なので、『東京喰種 トーキョーグール』という看板を借りて、いまの自分のメッセージを届けることができたのはよかったです」
カネキは人間の心を持ちながらも、喰種の想いや悲しみ、怒りに侵食されてどんどん狂気を帯びていく。
大学の先輩でもある喰種のニシキ(白石隼也)と繰り広げる中盤のバトル、人間の捜査官・亜門鋼太朗(鈴木伸之)と激突するクライマックスのバトルでは、そんな本作のテーマが、言葉ではなく、キレッキレのアクションを連続させる窪田の肉体を通して伝わってくるから驚く。