未山は「自分とは違う人格」

撮影/稲澤朝博

――監督から「坂口くんで撮ってみたい」と言われた時は、どんな気持ちでしたか。

最初はそこまではっきりと言われたわけではなくて、「坂口くんで何か撮れたらな」「撮りたいな」ぐらいの感じでした。

伊藤監督には(映画)『ナラタージュ』のときに脚本を書いていただいていて、(『ナラタージュ』の監督をした)行定(勲)さんとの食事会でよくご一緒していたんですけど、その場で、監督自身も予期していないぐらいの感じで出た言葉だったと思います。

でも「撮ってみたい」と言われたら、興味は沸きますよね(笑)。「どういう想いでいてくれているのだろう?」とは思っていました。

結果としてそれが具現化したわけですけど、意外と出来上がったものを観てみると「自分とは違う人格だな」とは思いました。たとえ台本が当て書きであっても、未山のストーリーですし、この作品の中の登場人物がいるし、監督が撮りたかった映像なり、表現があるので。

これはクランクインをしてから監督から言われたことで、僕自身は完成作を観たときに初めてちゃんと感じたことでもあったんですけど、未山はただそこに居てくれる、その存在だけで意味があるようなキャラクターになっていました。

正直、自分では現場で監督と話ながら作り上げていったものが、ここまで象徴的な人間になるとは思っていなかったです。

撮影/稲澤朝博

――映画を観ていて「これはどういう意味なんだろう?」と考える箇所がいくつかありました。坂口さんはその辺りを明確にしてから撮影をされていたのでしょうか。

僕もわからないところは全然わからなかったです(笑)。この映画は説明をすごく省いているし、監督も少し特殊な撮り方をされていたので。さっきも言いましたけど、監督からは「存在するだけでいい」「未山は何もしない」と言われて「何もしないって何ですか?」とは思いましたね(笑)。それってすごく難しいなと。

それからもう一つ、未山は他の登場人物にとって水たまりを覗くと見える自分、水面鏡に映るような人物でいてほしいとも言われたんです。クランクイン前に準備してきて未山はいらないんだろうなとは思いました。

表現が合っているかはわからないんですけど、自分は未山にメッキをつけていたので、それを一度はがす作業をしながら、「ただ存在する」をやろうとしました。

©2023『サイド バイ サイド』製作委員会

――「何もしない」とは、具体的にどういうことですか。

例えば、今僕がこうやって話をしながら、足を組んだり、鼻を触ったり、人ってそういう癖があるじゃないですか。あとは話しているときに目が動くとかも。未山にはそういうものがないんです。

ただその場に立つ。気を付けをするわけでもなく、何もせずそこに立っている。ただ座る。背筋を伸ばすわけでもなく、本当に座る以外の何もしていない。監督からはそう言われました。

それってお芝居をしていると違和感があるんです。やっぱり人って動くものだし、しゃべるだけでも目線だったり、手だったり、何か動く。そんなふうにリアルでは出るものをすべてそぎ落としてるからこそ、作品として俯瞰で観たときの未山ってなんか変なんですよね。それが偶像とか、象徴っぽく見えるんです。

もし普通にしていたら出てしまう自分なりの癖が出ていたら、未山はきっと他のキャラクターとさして違和感のない人になっていたと思います。そぎ落としたからこそ、シンボリックな存在になれたのかと。

そんなふうにこの作品は抽象的な表現や、お客さんに投げかける部分が多いから、リアルな芝居をするというよりは、未山が何を思っているのかを逆に悟らせないようにする表現をしていました。それができたのはちょっと面白い試みでした。