「自分を信じる」のが自信

「私なんてダメなのだ」と思ってしまうのは、「私」でない誰かのなかで価値のない自分を突きつけられるから。

それを自分の責任にするのは間違いで、相手の受け止め方はどこまでも相手の問題であり、「私なりに精一杯やった」と思うのであれば、そちらを見るのが正解です。

相手は自分と違う人間なら、考え方もものの感じ方も違って当然、どう受け止めるかはこちらでは決められません。

だからこそ自分のできる範囲で力を尽くすことしかこちらにできる選択はなく、結果が想像通りでなくても、「やれたこと」に満足するのが正しく自分を愛する姿勢になります。

相手のなかに自分の価値を置いてしまうから自信が左右されるのであり、そうではなく自分の価値は自分で決める、「私」の言動そのものをまず自分で肯定できる強さが、他人とも居心地よく関われる境界線をつくることにつながるのです。

そんな自分が、他人から見れば「自信のある人」「心の安定した人」と映り、前向きな関心を引き、同じような心を持った人との交流を生みます。

劣等感や卑屈感に支配されると、何をするにもまず相手の感情を気にして顔色を伺い、自分のやりたいことではなく「相手からOKの出る振る舞い」を優先します。

その結果やはり拒絶される自分を見れば、「あなたのためにやったのに」と相手を責める感情が生まれ、失敗の責任を負わせようとします。

それが依存であって、「私」の価値を相手に委ねている限り自信は育ちません。

相手の在り方に関係なく「私」の言動は自分で決めていく、相手の受け取り方に左右されず「これでいい」と動けた自分を認めてあげる。

相手からの評価と自分に向ける評価を切り離すのは本当に難しいですが、「これでいい」ときちんと納得ができる「私」になると、相手が想像通りに受け止めてくれなかったとしても責める気持ちは起こらず、そのまま置いておける強さになります。

そのまま置いておける強さは不毛な衝突を避ける距離感になり、ネガティブな感情のやり取りを避けられます。

そうやって「その自分」で居心地よく関わっていける人だけが周囲に残り、あたたかいコミュニケーションを楽しめることが、健全な人間関係ではないでしょうか。

自分を信じるのが自信であって、そこに相手の承認は不要であること、「動ける自分」をまっすぐに見る力が、そのまま他人の存在を受け入れ慈しむ心の器となる、と筆者は考えます。