「僚子の言うとおりに」としか言わないすえさん
「本当に全部僚子さんに、で良いんですか?」
私の問いに、すえさんは首を縦に振ります。そうは言っても、残りの2人のお子さんには遺留分があります。
遺留分とは、遺言でも奪えない「一定範囲の相続人に認められる最低限度の遺産取得割合」であり、そこを噛み砕いて説明しても、すえさんは「遺産はすべて僚子に」としか言いません。
僚子さんは、姉と弟に対して怒りがふつふつと湧いてくるのでしょう。強い口調でまくし立てます。
「姉は結婚のときに、両親に家まで建ててもらっています。姉の娘の結婚のときも、たくさんのお支度に母がお金を出したんです。弟はずっと両親にお金を無心してきて、車やらお小遣いやら、いくら渡したかを母は記録しています。あの2人は今まで遺留分以上のお金をもらっていますから、何も言わせません。私はあの2人に怒っていますし、もし文句を言ってきたらどこまでも闘いますから! 母の思いどおりの遺言書をつくってください!」
何度尋ねても、すえさんは「僚子の言うとおりに」としか言いません。
そうして何回かのやりとりを経て、公証役場での調印の日がきました。
公証人もすえさんに、遺留分のことを何度も確認しました。それでも「このとおりに」という強い意思は変わりません。
2人にこれまで支払ってきた件を遺言書に盛り込みながら、結局僚子さんがビル3棟を取得する内容となりました。
すえさんの意思の強さもさることながら、私が驚いたのは、公証役場で緊張もなく淡々とされていたことです。
公正証書遺言作成の際には、緊張する方が少なくありません。公証役場は、普段立ち入ることがない場所だからでしょう。
そのため公証人から何か尋ねられても、うまく答えられなかったり、オドオドしてしまったりしまいがちです。
できるだけ優しい公証人の先生を私も選ぶのですが、それでも緊張のあまり時間がかかることはよくあります。ところがすえさんは、緊張する様子もなく、スムーズに終わりました。
私も公証人の先生も、すえさんは本当に2人のお子さんで嫌な思いをしたのだな……そう思い、遺留分のことはあるにしろ、強い思いを形にできてホッとした案件でした。
あまりに悲しすぎる13通もの遺言書
それから2年ほど経ったでしょうか。
僚子さんから電話がありました。すえさんが施設で亡くなられたとのこと。弟さんが引き取った際に、勝手に施設に入所させてしまったと主張します。
なかなか面会もさせてもらえず、死に目にも会えなかったようでした。僚子さんが言っていたように、最後までひどい弟さんだったのだな……そう思っていたら、私は次の言葉に耳を疑いました。
なんと遺言書が、自筆証書、公正証書合わせて13通も出てきたとのこと! それなら公正証書遺言作成の際に緊張もせず慣れていて当然です。
3人の子どもたちの家に行くたびに、すえさんはいかにほかの2人につらく当たられてきたかを伝え、「頼れるのはあなただけ」と言っていたようです。3人のそれぞれに「かわいそう」と思ってもらうことが、自分を大切にしてもらう術だったのかもしれません。
つまり、遺言書について「このとおりに」と伝えていたのは、僚子さんだけではなかったのです。
子どもたちの一人ひとりに大事にしてもらうために、遺言書をつくり続ける。「あの子に強制されたからつくったけど、本心は違う」と、次々に新しいものをつくり直したのでしょう。
すえさんの子どもたち、要するに3人のきょうだいたちの仲がよければ、こうした事態は起こらなかったかもしれません。
最後は施設に入所してからの、手書きの遺言書でした。遺言書は基本的には最新の日付のものが有効になるので、約2年前に「全部の遺産を僚子に」と記された遺言書よりも優先されることになります。
ただ、最新の遺言書は認知症も出てきたころに書かれたものなので、自身の意思が反映されたものではなく、手本をただ書き写しただけかもしれません。
結局、きょうだい間で遺言の効力について揉め、裁判まで至り何年間も争うことになったのでした。
ただ自分を大切にしてもらうために、13通も遺言書をつくったすえさん。
それが子どもたちの機嫌をとり、愛情を確かめるためであり、自身のQOLを上げる手段だけだったなら、あまりに悲しすぎる話です。驚きとともに、心から切なくなってしまう案件でした。
(記事は2024年9月1日現在の情報に基づいています。質問は司法書士の実際の体験に基づいた創作です)
司法書士:太田垣章子(司法書士)
神戸海星女子学院卒業後、プロ野球の球団広報を経て認定司法書士に。約3000件の賃貸トラブル解決に家主側の立場から携わってきた。住まいにまつわる問題のほか、終活・相続のサポートにも従事。講演や執筆等でも積極的に発信している。
著書に『2000人の大家さんを救った司法書士が教える賃貸トラブルを防ぐ・解決する安心ガイド』(日本実業出版社)、『家賃滞納という貧困』『老後に住める家がない!』『不動産大異変』『あなたが独りで倒れて困ること30』(いずれもポプラ社)。東京司法書士会所属、会員番号第6040号。
【記事協力:相続会議】
「想いをつなぐ、家族のバトン」をコンセプトに、朝日新聞社が運営する相続に関するポータルサイト。役立つ情報をお届けするほか、お住まい近くの弁護士や税理士、司法書士を検索する機能がある。例えば、広島であれば下記から探すことができる。