自分が「捨てている可能性」について考えてみる
どんな関係であっても、過去に深い関わりのあった相手のSNSをこっそりチェックしては情報を把握したがる人は、それを知ることで自分の感情が決まり、好きでいることも無関心になることも相手の状態に左右されるといえます。
自分の意思で在り方を決められないのは自信がないからで、「自分はこう思う」をしっかりと掴んでもそれに添わない相手の様子を知るとショックを受けるため、最初から決断を放棄して相手の意思に委ねているとも感じます。
ですが、自分の足で立てないことはいつまで経っても「誰かがいないと困る」状況をみずからが作ることで、悪い流れになっても抵抗する力がなく気がつけば都合のいい存在になっていたなんて現実を避けられません。
相手に向ける執着はどこまでも自分の問題であって、相手にこちらの状態を何とかする義務はなく、その役割を負うかどうかは相手しだいになります。
「自分について無関心な相手」を知ることほど依存している人にとって恐ろしい現実はなく、それを避けるためにあれこれとネガティブな接触を続けても、前向きな気持ちのないつながりがあたたかい信頼や情愛を生むことはありません。
相手のSNSをチェックすることで何を本当は知りたいのか、「自分への関心の有無」ならその答えが出るまでいつまでも執着が消えることはなく、また新しい人の存在を確認しても「すぐ別れるかもしれない」と自分を思い出してもらえる可能性を捨てられないこともあります。
自分こそ「その人のいない現実への可能性」を捨ててしまっていることを、もう一度考えてみましょう。
望む現実が叶うかどうかは相手しだい、となると自分の状態を健全に維持することも相手の役目になり、そうしてくれないときに苦しむのは自分だけです。
自分の状態はみずからで手をかけて作り上げるもので、そこに相手の意思は必要なく、左右される理由もありません。
自分と相手の間には「違う人間なのだ」という境界線があり、お互いに相手の状態について義務を負わないのが自立です。
相手ありきで自分の気持ちを決めるのではなく、関わりは自分のなかに軸を持ってこそ前向きで幸せな好意が育つことを、忘れてはいけません。
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忘れられない人のSNSをチェックし続ける人には、どこかで縁の復活の可能性を捨てられない気持ちがあるのを感じます。
そうでなければストレスなく新しく関心を持てる人への好意を育てられるはずです。
相手の情報を知って自分の気持ちを決めるのではなく、相手の存在の意味は自分で作れること、自分の「どうありたいのか」から逃げない勇気が、居心地のいい関係を築く下地になると心得たいですね。