立川志らく/撮影:山田雅子
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  • 立川志らく/写真:産経新聞社提供
  • 【動画配信】今年最後の立川志らく独演会(第10回)

落語家・立川志らくにとって、この1年は、人生が一変する激動の月日だったに違いない。

といっても、コロナのことではない。TBS系列で、月曜日から金曜日まで全国放送されている朝の情報番組『グッと!ラック』でのメインMCが2019年9月から。

同じチャンネルですぐ後に続く『ひるおび!』の第1部にも、そのまま月曜日から金曜日までコメンテーターとして出演し、今や、この人の顔をTVで観ない日はない、と言って、ほぼ言いすぎではないだろう。

その彼が、これまで10年間にわたって、「その年の自分の落語の語り納めの場」と決めてきた特別な会が、12月のよみうりホール公演である。

クラシックファンにとって、12月がベートーべンの「第九」の月であるように、落語家と落語ファンにとって、12月は「芝浜」の月だ。

仕事は一流だが酒びたりの魚屋と、その妻。人生の苦労を乗り越えたふたりが、大晦日に交わす、真実の絆の会話に、落語ファンは胸を熱くし、ゆく年くる年を静かに噛みしめる。

「芝浜」とは、そういう噺。12月17日(木)、「2020今年最後の立川志らく独演会」(第10回)。当代随一の「芝浜」を聴くならここだ。

今年の語り納めの場を前に、立川志らくのインタビューを2回にわたってお届けする。

きっかけは立川談志のピンチヒッターを務めたこと

そもそも、この落語家が年末のよみうりホール公演をはじめることになったきっかけは、師匠である、故・立川談志のピンチヒッターを務めたことがきっかけだった。立川志らくは言う。

「談志が、年の瀬のよみうりホールでしばしば「芝浜」を演じていて、談志ファンはそれを目当てにしていた。2011年、談志が入院して、そのときはもう、落語ができない状態。そんなとき、(当時主催者だった)サンケイリビング新聞社から「談志師匠は年末のよみうりホールはできそうもない。志らくさん、替わりにやってくださいよ」と言われた。自分としても「替わりに自分の独演会をやればいいのかな」くらいの気持ちで引き受けたんです」

ところがその年、2011年11月21日、立川談志逝去。享年75。

「そうなると、俄然、年末のよみうりホール公演に向けられた雰囲気は“談志追悼の会”一色です。一連の追悼興行のメインみたいな格付けになってしまって、そのときに初めて「これはエライことになったな」と。

わたしのファンだけでなく、談志信者と呼ばれているような(ファン度の)濃い人たちも来るだろうし、久々のプレッシャーを感じましたね。幕が開いたときは、すでに泣いているような人がいたほどの異様な空気。

そのときの「芝浜」は、自分で何をどうやったのか覚えていない。とにかく夢中。語り終えた後は、拍手がとても大きかった。ファンの人が、立川談志の影を、わたしに重ね合わせて見てくれたのかな。

サンケイリビング新聞社が、たまたまわたしに声をかけてくれたことで、談志が志らくに「芝浜」のバトンパスをした、というような、そういういい誤解が生まれた。

談志ファンにとって、家元が、志らく、替わりに「芝浜」をやってくれよ、と言ったような、そんな雰囲気すらあった。自分にとって、年末のよみうりホール公演は、そういう経緯でスタートした会だったんです」

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