神保町はカレーの街、中国料理の街と呼ばれているが、私は「いもや」の街だと思ってきた。

神保町界隈には「いもや」が点在し、揚げたての美味しい天ぷらや天丼やとんかつを食べさせてくれているからだ。

私は、昼はとんかつ、夜は天ぷらを食べる機会が多かった。夕方、靖国通り沿いにあった天ぷらの「いもや」で食事をしていると、長いカウンターのどこかに、タクシー運転手がひとりやふたり必ず座っていたものだ。安くて旨い店に目がないタクシー運転手が、靖国通りにクルマを停め、天ぷらを頬張っていたのだった。

タクシー運転手、学生、サラリーマン、OL、出版関係者など、ありとあらゆる人から愛されてきた「いもや」が、平成30(2018)年3月31日で閉店する。

長年通ってきた店がなくなるというのはどういうことなのか。自分の中でまだ整理ができていない。ある日をさかいに、大好きな店がこつ然と消える。「いもや」ロスの日々を、これからどうすればいいのか、自分でもまだよく理解できていない。

「いもや」が産声をあげた時代

「いもや」を知ったのは18歳のときだ。

私の初「いもや」はとんかつだった。「人生劇場」(神保町一丁目)の近くにあった店ではない。いまの店である。昭和53(1978)年のことだ。

ご飯を大盛りで頼んだ。食後、お金(500円だったと思う)を払おうとしたら、従業員のオバちゃんに「ご飯をきれいに食べてください」と指摘された。

ご飯茶碗にご飯が数粒ついていただけだったはずだが、いまでいう“食育”を、「いもや」のあのオバちゃんはしてくれたのだと思う。

その話を宮田由香さんにした。

由香さんは、「いもや」の初代社長、故・宮田三朗さん(大正元年生まれ)の愛娘だ。

「最近はそういうことを、親に注意されたことがない人が増えているので、注意しにくい時代になりました。気がついてきちんと食べてくれる人もいるんですけどね」

三朗さんの妻、静子さん(昭和7年生まれ)が二代目社長を引き継いでいるが、ご高齢のため、由香さんが社長代行として店を盛り立ててきた。

「父はパチンコ屋を経営したり、大学芋を作って売っていたと聞いています。昭和34(1959)年、天丼の店があるこの場所に、『いもや』を開業しました」

なぜ神保町を選んだのかは詳らかではないが、大学芋を売っていたことから、「いもや」の暖簾を神保町に掲げた。

入口がふたつあり、片方が天丼屋、もう片方が天ぷら屋だった。カウンターは別々だったが、厨房はひとつで、揚げたての天ぷらと天丼を供していたという。

「古いお客さんから、開業当初は天丼も天ぷらも50円だったと、聞いています」

『値段史年表 明治・大正・昭和』(週刊朝日編)によれば、天丼は昭和30(1955)年が150円、昭和38(1963)年が200円。ちなみに、カレーライスは昭和30年が100円、昭和36(1961)年が110円だった。

三朗さんは創業当初、カレーよりも安く天丼と天ぷらを提供していたようだ。人件費をおさえるためもあったのだろう、妻の静子さんも、よく天ぷらを揚げていたという。

中卒の従業員が多く、男性も女性も住み込みで働いていた。もしかすると映画『ALWAYS 三丁目の夕日』で、堀北真希さん扮する「ろくちゃん」のような少女もいたのかもしれない。

そんな時代に、「いもや」は産声をあげた。