劇場版としては2作目となる映画『HERO』で、シリーズは15年目を迎えた。2001年1月から、主人公、久利生公平と付き合っている主演、木村拓哉の言葉もまた、そうした年月を経たものになっている。
ここでは、インタビューのなかから、木村の、久利生への、そして『HERO』への情が感じられるフレーズをピックアップ。
短いコメントを添えたが、きっと、それ以上のものがあるはず。彼の想いを、どうか、あなたのイマジネーションで読み解いていただきたい。
1.「どう転んでも、あくまでも愛すべき群像劇でした」
完成したばかりの映画『HERO』を観終えた直後の第一声。
木村拓哉にとって『HERO』シリーズは、あくまでも群像劇であり、あくまでも愛すべきものなのだろう。
チームプレイによって駆動する『HERO』。タイトルは単数形だが、HEROはひとりではない。それぞれがHEROだというのは、このシリーズの基本精神である。
2.「久利生と雨宮は、男女の関係においては、まったくもってリアルじゃない。逆に、そのリアルじゃない部分で遊べてる」
検事としての部分は、とことんリアリティを追求する。
撮影現場においても、ギリギリまでリアルの可能性を探る。それが『HERO』の在り方だと木村は言う。
ところが、こと、久利生公平と雨宮舞子の関係にかんしては、いわゆる男と女のリアリティが関与しない。「男女を超えている」とも。リアルとアンリアルの同居こそ『HERO』の「遊び」であり、魅力なのである。
3.「恋愛感度、低すぎでしょ」
木村は、久利生に対して、一男性として疑問を呈する。
なぜ、麻木千佳や馬場礼子という美人が職場にいながら、動くことがないのか?
そして、なぜ今回、合同捜査をおこなうことになった雨宮に対して、あのような態度なのか?
「感度が低い」というのが木村の結論。かつて「週イチで飲みに行ける存在」と久利生のことを評したことがある木村ならではの、辛辣な批評。
4.「久利生は演じてはいないんじゃないかな。だって、もし演じているのだとしたら、演じているのだという部分をちゃんと観てくれる人たちに伝えるべきじゃないですか」
たとえば、自分は恋愛に一線をひいている、というような、恋愛に鈍いフリを久利生はしているのでは? と訊いたところ、「フリではない」と即答。
つまり、久利生はなにかをカモフラージュはしていないし、演じる木村自身もカモフラージュはしていないのである。
私生活が見えにくく、どこかミステリアスな雰囲気もある久利生だが、そこは演じ手にとっては狙いではないようだ。それにしても「伝える」ことに関しては、とことんフェアであろうとする俳優である。