「自分自身が憧れる存在」であり続けようという“覚悟”

「もうキムタクっていう歳じゃない」だとか、いくらでも逃げ道になる言い訳はあっただろう。けれど木村は自分の美学を貫く道を選んだ。事実、木村は「自分自身が勝手に設定したルール」として「逃げないこと」を挙げている。(『婦人公論』2013年11月7日号)

「男にはふたとおりあるのだ。自分以外の誰かに憧れる男と、自分自身に憧れる男と。木村拓哉はおそらく後者なのだ」(『ザテレビジョン』1997年4月18日号)と杉作J太郎が評するように、木村拓哉はおそらく「木村拓哉」に憧れている。

言い換えれば、自分自身が憧れる存在であり続けようと覚悟を決めた男である。そのカッコイイの価値観は揺るぎない。

「自分自身に憧れる、というのはナルシストのようであって実は正反対である。自分が憧れてしかるべき男に、自分自身がまずなろうとする…。自分が憧れて悔いのない人間になるべく、自分自身がまず一歩前に行く。だから自分で自分を谷底に叩き落とすことだってある」(同前)と杉作は続ける。だから木村には「大人の男(ヒーロー)たちと同じ匂いがする」と。

かつてテレビには誰もが憧れる国民的な大人の“HERO”がいた。
木村拓哉もまた間違いなくその系譜を受け継ぐ男である。そして彼はテレビにおける最後の“HERO”なのかもしれない。

2015年、木村拓哉は再び映画で『HERO』を演じる。
以前木村は『HERO』というタイトルの意味を問われこう答えている。

「どこか特別に力持ちでもないし、足が速いわけでもないし、空を飛べるわけでもないけど、人として“揺るぎないもの”を持っている人、持とうとしている人が『HERO』なんじゃないかな? と、勝手に解釈しています」(ドラマ『HERO』公式HP)

「人として“揺るぎないもの”を持っている人」。それはまさに木村拓哉そのものではないだろうか。

78年生まれ。福島県在住。テレビっ子。ライター。著書に『タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か』(イースト・プレス)、『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか』、『コントに捧げた内村光良の怒り』(ともにコア新書)がある。ブログ