畏れを封印し、許容するために生まれた「キムタク」
前述したように、木村拓哉は明快な芸風を自ら発信していないし、また、SMAPで唯一の妻子持ちであるということ以外、スキャンダラスなトピックとも無縁で、物語が見出しにくい。
わたしたちは木村拓哉を知っている。知っているはずなのに、本当の意味での認知には至っていない。それが混乱を呼ぶ。ではどうしたらいいのか。芸風や物語のような「与えられる」ものがないのなら、こちらが「付与する」しかない。そう、わたしたちは「キムタク」というペルソナを生み出すことで、レッテル貼りをおこなっている。
木村拓哉に対する畏れを封印し、許容するために「キムタク」というフレーズを用いているのだ。
これは彼を罵倒する者に限ったことではない。彼への愛を叫ぶ者、そして「キムタク」という呪文は決して使わないと決意している者たちもまた、木村拓哉を畏れている。
畏れているからバッシングする。畏れているから惹かれる。いずれにせよ、わたしたちは、木村拓哉を畏れているからこそ、無視できないでいる。
「キムタクはなにをやってもキムタク」という言説は、逆に言えば、決して手に入れることのできない木村拓哉を何とか手に入れようとする「悪あがき」ではないのか。「キムタク」という呼び名が本来そうであったのと同じように、近づきようがないものに少しでも近づくための方法としての言葉=呪文なのではないか。
さらに言えば、叩いてもいい対象、代用品としてのペルソナ「キムタク」を捏造することで、己を安全圏内に置く、防衛手段なのではないか。
「キムタク」という呪文が、彼への畏れを逆に肥大化させた
彼がほんとうに取るに足らない演技者なのだとしたら、無視すればいいだけの話だ。しかし、無視はできない。なぜなら、畏れているから。木村拓哉の「素」が把握できないから。芸風や物語をよりどころにして、観客が「高みに立つ」ことが難しい。
だとしたら、「キムタク」を攻撃すればいい。「キムタクはなにをやってもキムタク」ということにしておけば、自分の手許に置いておける。むしろ、愛着の表明なのかもしれない。そのかたちが奇妙にねじれているのも、ひょっとしたら愛の力によるものかもしれない。
彼ら彼女らは、「キムタクはなにをやってもキムタク」と繰り返すことで、本当のところは「よくわからない」木村拓哉を自分なりに許容しようとしている。壊れたオルゴールのようなリフレインが、ひたむきな「努力」に思えてくる。呪文とは、そもそも一途なものである。
「キムタク」という呪文が、わたしたちの木村拓哉への畏れを、逆に肥大化させた。巨大化した畏れが、俳優としての木村拓哉を見つめる際の思考を圧迫している。「キムタクはなにをやってもキムタク」は、思考停止どころか、思考放棄。つまり、悲劇以外のなにものでもない。
しかし、事態は、一昨年末から、急転しつつある。