わたしたちは『安堂ロイド』を見て、なぜ「混乱」したのか
2013年の『安堂ロイド〜A.I. knows LOVE ?〜』は「ドラマによる木村拓哉論」と呼んでもいいほど画期的な作品だった。わたしたちに、俳優、木村拓哉についての再考を促す内実があった。しかし、ラブストーリーを縦軸としながらも、タイムパラドックスを基調としたSF的な構造が難解とされ、一般視聴者には敬遠された、ということになっている。
だが、それはほんとうだろうか? もし、オーディエンスが混乱したのだとすれば、SFの複雑性に理由があるのではなく、木村拓哉が2役を演じていたからではないのか。
木村はここで、ファニーな変わり者である天才物理学者、沫嶋黎士と、彼によって100年先の未来から送り込まれた、無表情で冷徹なアンドロイド、ARX Ⅱ-13を演じ分けた。姿かたちは一緒だが、両者はきわめて対照的なキャラクターであり、そもそも人間と人造人間という明快な差異があった。
もし「キムタクはなにをやってもキムタク」なのだとすれば、少なくとも、ここには複数の「キムタク」がいたことになる。瞳の動きのありようから指先の神経にいたるまで、黎士とロイドはその所作においてまるっきり異なっており、両者はまるで違う演技アプローチによって構築されていた。
この作品は「キムタクはなにをやってもキムタク」ではないことを証明している。
しかし、従来の木村拓哉ファンも本作から目を逸らしたという言説を真に受けるなら、ふたつの役に引き裂かれた木村拓哉、いや、真っ二つに分解された「キムタク」を容認できなかった、ということなのではないか。
「どっちが、私の知っているキムタクなのか」という消化不良
さらに、クールなロイドが前面に立ち、ウォーミーな黎士が背後に隠れ、出番がかなり少なかった(冒頭、回想、幕切れなどに限られている)ことも、問題として挙げられるだろう。
こうした構造があったからこそ、ロイドから黎士への「移行」を果たす奇跡の最終盤が成立したのだが、「キムタク」に一貫して同一性を求める観客(前章から綴っている通り、そこには熱狂的な木村ファンも含まれる)からすれば、「どっちが、私の知っているキムタクなのか」判然としないという消化不良が歴然と立ちはだかっていたのではないか。
もし、これが、黎士が前面にいたのだとすれば状況は変わったいたかもしれない。ファニーでウォーミーな物理学者が主人公然としてそこにいれば(正確に言えば、本作は出番の少ない黎士が主人公であり、出番の多いロイドは実は主人公ではないからこそ真に野心的なのだが。さらに言えば、物語の本当の主人公は柴咲コウ扮する安堂麻陽である。この三段構えは確かに複雑だ)とっつきやすいし、無表情でクールなロイドは「薬味」として機能していただろう。
さらに言えば、木村拓哉はここで、ARX Ⅱ-13の先に沫嶋黎士がいる、という「二重写し」の設定を、その存在のみで実現するという離れ業を達成しているのだが、この鮮やかさは「キムタクはなにをやってもキムタク」との呪文を破壊する危険性があり、結果的に拒否されたとも考えられる。
とっつきにくく、非人間的な(いや、「彼」はまさに人間ではないのだが)ロイドは、わたしたちの木村拓哉に対する畏れを増大させる存在だった。だから、ある者はそれを無視し、ある者は『ロングバケーション』以来の熱狂を表明したのである。
この「キムタク」にはあってはならない、二重性、複数性を、反転させ、成功をおさめたのが2015年の『アイムホーム』である。