『アイムホーム』で顕在化・加速した、“真の問題”とは

『アイムホーム』は、「キムタクはなにをやってもキムタク」と叩きつづけたひとびとからも「新境地」と評された、ということになっている。では、なぜ、そのようなことが起きたのか。『安堂ロイド』の構造を真逆にしているからである。

ここで前面に立つのは、事故で過去のある部分の記憶を失い、自分自身にまったく自信が持てないでいる家路久だ。彼はかつて、高慢で鼻持ちならないヤツであったらしい。一部のファンからは「ブラック久」とも呼ばれた、この過去の家路久はときおり(沫嶋黎士程度に)あらわれ、現在の家路久のコントラストを明瞭にした。そして、ラストでは「ホワイト久」と「ブラック久」は対面することになる。まさに構造、展開は『安堂ロイド』を彷彿とさせる。

『アイムホーム』が好評だった理由はハッキリしている。「ホワイト久」が、手に入れやすい、とっつきやすいキャラクターだったからに他ならない。ロイドの無表情に移入するのは難しいが、家路久のアイデンティティの欠落に親身になることはたやすい。つまり「上から目線」で追いかけることが可能になる。

もし、罵倒をつづけていた者たちが、手の平を返したように「新境地」を口にしているのだとすれば、「ホワイト久」が従順な小動物のように思えたからではないか。もし、木村拓哉が手に入るのだとすれば、もう「キムタク」の呪文を唱えなくてもいい。

いうことをきいてくれそうな「ホワイト久」が前に立つことで、二重性、複雑性は敬遠されることなく、野心的な「ブラック久」のセクシーささえも肯定的に迎え入れられたのである。

だが、真の問題は、ほとんどの観客が、役=キャラクターしか見つめておらず、木村拓哉本人の芝居の在り方を凝視してはいないことだ。この事態は『アイムホーム』でも一向に改善されていないばかりか、「ホワイト久」「ブラック久」の対比が、沫嶋黎士とARX Ⅱ-13の差異よりも単純であったことから、さらに加速してしまった可能性がある。

次の章では、『HERO』を通して、この問題について論じてみたい。なぜなら、久利生公平の存在こそが、「キムタクはなにをやってもキムタク」という呪文の正体だからだ。

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