わたしたちは、みな、木村拓哉が「見えていない」

いま、明言できるのは、「木村拓哉はなにをやってもカッコいい」という大合唱と、「キムタクはなにをやってもキムタク」という大ブーイングは、いずれも、木村拓哉の表現を見つめないという意味で、根っこがまったく同質だということ。そして、それらいずれにも属していないと「思い込んでいる」わたしのようなひとびとも結局のところ、大差はないということである。

わたしは、「ロングバケーション」『ハウルの動く城』『アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン』「安堂ロイド」における木村拓哉の働きがいかに優れているかをこれまで様々なところで、できるだけ具体的に綴ってきた。しかし、いくら、そのようなことを繰り返したところで、木村拓哉という演じ手には到達できない。なぜなら、細部の技術論は、まったく本質的ではないからである。

木村がいかに優れているかを述べることは、「木村拓哉はなにをやってもカッコいい」と声を張り上げることと、実は変わりはない。あの役と、この役を比較検討し、その「違い」によって、「キムタクはなにをやってもキムタク」という言説を否定しようとしても、おそらくは無駄だ。

なぜなら、わたしたちは、みな、「同族」だから。
「同族」同士が闘い、その戦争を「同族」が苦々しく見守っている。

応援も、バッシングも、傍観も、すべて同じことである。
わたしたちは、みな、木村拓哉が「見えていない」のだから。
見えてもいないのに、夢中になり、憎み、分析しようとしている。

なんという、不毛。
わたしたちは全員、「盲目」である。

“発信者”たちが「あのフレーズ」に飛びついた理由

「キムタクはなにをやってもキムタク」――それを、だれが最初に口にしたのかはわからない。ただ、この語りが普及したのは、21世紀以降のことだと思われる。この言説の飛び火を支えたのはネットであり、SNSであろう。

ネット、ならびにSNSを手にしたわたしたちは、あるときから全員、発信者になった(と、勘違いした)。全員、批評家になった(と、思い込んだ)。全員、ジャーナリストになった(と、曲解した)。

発信者に、批評家に、ジャーナリストになった気分を、もっとも的確に満たすのは「ものを申す」ことである。

日本で知らぬ者のいない、スター中のスターを貶めることができれば、それは「ものを申す」ことになる。

だから、ひとびとは飛びついた。たとえ、それが自身のオリジナルな言説ではなくても、論拠が不在でも、わずか140文字で完結できる世界においては、「キムタクはなにをやってもキムタク」は明快な殺し文句たりえた。

「キムタクはなにをやってもキムタク」が真実であるかはどうでもいい。強烈なこのフレーズをリツイートすれば、「いいね!」をプッシュすれば、発信者に、批評家に、ジャーナリストになれる。そうした脊髄反射的な手応えがあった。いや、いまもある。「キムタクはなにをやってもキムタク」という呪文には、エナジードリンクを飲み干すような爽快感がある。

だから、それは、そもそも挑発ではなかった。「もの申す」気分にひたりたいだけだった。だが、それを挑発と受け取ったひとびとがいた。そして、「聖戦」ははじまった。