わたしたちは「盲目」だ。だが、畏れることはない
前章で述べた通り、「キムタク」とは、大衆が作り上げたペルソナ(仮面)である。「キムタクはなにをやってもキムタク」は「ペルソナはペルソナ」と語っているにすぎない。大衆は、木村拓哉に「キムタク」という仮面をかぶせ、「なにをやっても同じ仮面に見える」と糾弾しているにすぎないのだ。
ひとびとが「キムタクはなにをやっても久利生」とは言わないのはなぜか。それは久利生と、沫嶋黎士、宮本武蔵、家路久は違うという、最低限の認識はできているからだ。
もし、「キムタクはなにをやってもキムタク」と見えているとすれば、それは、木村拓哉という俳優の非凡さを証明することになるだろう。久利生も、黎士も、武蔵も、家路も、キムタクにしか見えないとすれば、それらキャラクターすべてと木村拓哉とのあいだには距離が存在していないことになる。
距離がないから、落差が感じとれない。落差が感じとれないから、全部、同じに見える。全部、キムタクに見える!
逆に言えば、木村拓哉の凄さは、わたしたちを盲目にしてしまうことではないのか。
つまり、キムタクは無数に存在する。そして、それぞれは、まったく別のかたち、別な表現であるにもかかわらず、わたしたちは、それを「キムタク」と呼ぶことしかできないでいる。
「木村拓哉」と呼ぼうが、「木村さん」と呼ぼうが、「たっくん」と呼ぼうが、「拓哉」と呼ぼうが、「キャプテン」と呼ぼうが、「船長」と呼ぼうが、全部、同じことだ。
わたしたちは「キムタク」の一言で、本来、手に入れられないものを手に入れたと錯覚した。そして、本質を知るために必要な「畏れの克服」を放棄した。呪文で、己を誤魔化しながら、けれども、ほんとうは畏れながら、崇め、貶し、「宗教戦争」に身を投じた。
ある者は、木村拓哉という「象徴」を破壊しようとした。ある者は、この「象徴」を守ろうとした。いずれも、同じことだ。
木村拓哉は「象徴」ではない。人間だ。ひとりの演じ手だ。
わたしたちは、木村拓哉に価値があることを知ってはいる。だが、それがどのような価値なのか、誰ひとりとして知らない。
だから、木村拓哉を過小評価するし、過大評価する。木村拓哉にふさわしい価値を見つけられないでいる。
わたしたちは畏れている。そして、「玉手箱」の前で、いまだ呆然としている。
わたしたちは「盲目」だ。だが、畏れることはない。
いまこそ思い出そう。サン=テグジュペリの『星の王子さま』のあの一節を。
「ほんとうに大切なものは目に見えない」。
争っている場合ではない。「戦争」は一刻もはやく終わらせよう。
それよりも。
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