誰ひとり明確化できない、木村拓哉と久利生公平の「差異」

「キムタクはなにをやってもキムタク」の源泉を辿っていくと、『HERO』に突き当たる。2001年1月。つまり、21世紀の幕開けと共に始まったこのTVシリーズは、木村拓哉主演作品のなかでも最強の「結果」を残している。つまり、それだけ多くのひとが、あの主人公、久利生公平に接している。

久利生公平は、木村拓哉の「素」が反映されている。おそらく、わたしたちは全員、無意識のうちに、そう感じている。

あるスタッフは「当て書きだったのではないか」と証言する。ある共演者は「どこからが久利生公平で、どこからが木村拓哉かわからない」と首をかしげる。『HERO』のもっともそばにいるはずのひとびとですら、木村拓哉と久利生公平の差異を口にすることができないのだから、わたしたちが「その違い」を明確化できるはずがない。

事実、わたしが、そうだった。

木村拓哉という演じ手と、久利生公平というキャラクターは、明らかに別人格であるにもかかわらず、撮影現場でいくら、何度、凝視しても、その「移行」が見えなかった。成りきり型でもなければ、テクニック依存型でもないこの俳優と、この「当たり役」の距離を、どうしても把握することができなかった。

木村が久利生を動かしていることは間違いないのだが、久利生そのものには「動かされている」像が微塵も見当たらない。だから、撮影現場で本番が始まっても、木村拓哉を見ているのか、久利生公平を見ているのか、わからなくなる。

この距離の「見えなさ」こそが、木村拓哉の独自性である。木村が久利生に近づいてるわけでも、木村が久利生を引きつけているわけでもない。両者の距離がないのだ。直結している、というより、重なっている。

だから、久利生公平を見ることと、木村拓哉を見ることは、同一線上に在る可能性すらある。そして、多くのひとびとが、それを体験している。

ところが、不思議なことに、誰も「キムタクはなにをやっても久利生」とは言わない。木村拓哉=久利生公平の像の重なりがあまりに強烈で、その印象に支配されているのだとしたら、「キムタクはなにをやっても久利生」と非難すればいいのだ。しかし、そうは言わない。「キムタクはなにをやってもキムタク」という、きわめて抽象的な同語反復(トートロジー)をリフレインする。