彼の能力の結晶化であり、純粋な証明であるシーン
「ユリイカ」という、古代ギリシャ語を由来とする感嘆詞がある。我、発見せりーーつまり、見つけたぞ! という意味だ。
沖田のあの顔は、この「ユリイカ」という啓示、言ってみれば「神からもたらされたもの」を享受した人間の顔であり、ひとつの現象と呼ぶべき何かであった。
見つける。受けとる。噛みしめる。よろこび。うれしさ。報われる。
徹頭徹尾「準備の人」である沖田が不断の追求をおこなってきたからこそ初めて出逢うことができた「ユリイカ」を、木村拓哉は途方もない「推移」として見せる。
あの顔はほとんど、感情を超えている。やがて涙という「光」にたどり着くことになる、あの顔のグラデーションは、とてつもないスロウモーションにも感じられるし、凄まじいハイスピードにも思える。高速で青空を移動していく雲にも見えるし、ふと見上げた夜空で遭遇した一瞬の流れ星にも似ている。
時間というものは伸縮するのだという真実。それを木村拓哉はワンカットで見せる。あるとき、あの顔は時間を止めるし、あるとき、あの顔は時間を超えている。
まさに深遠なる瞬間だった。
だが、木村はもともと「推移」の表現に長けた演じ手であった。
たとえば『安堂ロイド 〜A.I. knows LOVE?〜』のラストで、安堂ロイドから沫嶋黎士に変わる「推移」を、木村はやはりワンカットで見せた。ドラマの中で起きる奇蹟を、演技表現としての奇蹟が支えていた。
「ユリイカ」のシーンは、木村拓哉の能力の結晶化であり、純粋な証明である。
「ジャンプ」の前に用意されていた、ふたつの顔
<A LOVE>
だから、『A LIFE』7話において、真に驚くべき顔は、その前に訪れていた。
「ユリイカ」を「ジャンプ」とすれば、「ホップ」と「ステップ」が用意されていた。
まず、深冬が沖田の部屋を訪れ「神経を犠牲にしていいから、命だけは助けてほしい」と懇願したとき。あのとき沖田は、深冬に背を向け、視聴者だけにその顔を晒すのだが、あの顔はもはや「推移」という劇性さえも超えた複合的なキメラ(遺伝子の異なる細胞を併せ持つ生物のこと)として存在していた。
不安や揺らぎがある一方、それに打ち克とうとする探索や信念がある。静謐と激動。NOとYES。それらが、入れ替わり立ち替わりではなく、同一の顔面に存在している。しかも、ものすごく繊細に。そこでは油彩にしか描けないモチーフが、水彩画として完成しているかのような趣。
繰り返しになるが、それは「推移」ではなかった。流れでもなく、線でもなく、一個の点として、そのような「状態」を存在させていた。あの顔はほんとうに凄かった。