-そろそろ本題に入ろうか。いつからエンターテイメントに目覚めたの?

大学卒業後は約5年間、障がい者施設(知的障害)の職員として勤務していました。ここで、とてつもなくピアノが上手い自閉症の男性と出会いました。演奏を聴いてすごいなって。この出会いが、今の僕のスタート地点になっていると思います。

そして、大学を卒業してからギターを始めていたので、演奏が好きな障害者とバンドを組んで、高齢者施設や小学校をまわって演奏するという活動をスタートしました。

-その頃が「M高史」の誕生?

障がい者と組んだバンド活動している頃、震災があって、人生に悔いなく生きたいと思うようなりました。そして、楽器がなくても、口だけで何かできるようにと考えてモノマネを。ちなみに最初のモノマネは今も続けているB’zの稲葉さん。

この頃、施設で喜怒哀楽の豊かな人が病気でほとんど表情がなくなってしまったことがありました。家族もとても寂しい様子でした。

僕らスタッフは医者じゃないですし、この人のため、この家族のために何ができるか分からなかったのですが、ある日、寝る前の「おやすみなさい」っていうときにモノマネをしたらケラケラ笑ってくれたんです。

「これを仕事にしたい!」と強く思った瞬間です。ちなみにそのときやったモノマネは「松山千春」(※すでに封印)

 すぐにモノマネのオーディションにエントリーしました。見事合格(そっくり館キサラ)201112月にモノマネ芸人としてスタートを切りました。

-芸人として活動を始めたわけだけど、再び走り出すきっかけって何だったのかな。

最後の箱根駅伝が終わって、マネージャー業も終わって、太ってきたし、ちょっと走ってみようかなとジョギングを開始しました。たまたま誘われて出た小さな駅伝大会を走って、走るって楽しいな!と改めて思いました。

障がい者施設で勤務しているときも通勤ランなどで、ランニングはずっと続けていました。大学卒業後に5000m15分台で走れるようになって、今まで何やってたんだって()

 -川内優輝選手のモノマネを始めたきっかけは?

川内優輝選手に似ていると周りにいわれることが多く、川内選手のモノマネを始めました。同じユニフォーム着るだけじゃなく、ランニングフォームやゴール後の倒れるシーンをモノマネして各地のマラソン大会にゲストランナーとして参加すること増えました。最初の頃は自分からマラソンの大会事務局に営業をかけていましたけどね。

 -最初の頃は川内選手と同じレースに出て、大会がパニックしたことがあった(笑)って聞いたことがあるけど・・・。

騒がせてしまったこともありましたが、今は川内家とも親交があり、非公認だけど家族公認という立場でモノマネを続けさせていただいています。

 -どんな芸人さんになりたいと思ってるの?

障がい者施設で働きながら、「音楽療法」を学びに大学に再び通っていました。障がい者と組むバンド活動も、自分たちが楽しんだり、周りを楽しませるだけじゃなくて、裏付けのある根拠をもって、意味のある活動したいと思うようになりました。これが、モノマネ体操につながっています。

 最初の頃のゲストランナーとしての仕事は「モノマネショー」「参加者と走る」「参加者とハイタッチ」そして「準備体操」をお願いされることが多くなってきた。最初の頃は駒澤大学陸上競技部の準備体操をしていましたが、もっと何かできることがあるのではないかと考えていました。