万次は、何かを失ったから、何かを得た
映画『無限の住人』は、次のような物語だ。
「百人斬り」という伝説の異名を持つ侍、万次。彼は、最愛の妹、町を目の前で殺され、生きる目的を失ってしまう。
そして、町の生命を奪った者たちを皆殺しにするが、その過程で、片眼と片腕を失う。つまり、精神的にも肉体的にも「欠損」を負うことになる。
瀕死となった万次の前に、謎の老婆が現れる。万次は自分の息の根を止めてほしいと頼むが、老婆は逆に、不死身の躰を与える。
死ぬのではなく、生きつづけろ。
つまりは、そういう宿命を、無理矢理、「付与」する。
万次は、新たな業とともに生きることになる。それから50年。
不老不死となった万次は、半世紀前と同じ姿のまま、ひとりの少女と出逢う。町にそっくりな彼女の名は凛。両親を惨殺した男に復讐したいのだという。
かくして万次は凛の用心棒として、彼女の仇討ちのために、凄まじい道行きに同行することになる。
では、その「旅」は何を意味するのか。
一見、ドメスティックな時代劇に映るが、グルーバルなフェアリーテイル(おとぎ話)にも思える。
つまり、これは、単純な娯楽活劇というよりは、読み解きがいのある普遍的なストーリーなのではないだろうか。
ここで描かれているのは、「欠損」と「付与」である。
万次にとっては、凛との「旅」もギフトとなる。
なぜなら、それは「再生」の道行きだからだ。
だが、同時に、こうも思わずにはいられない。
万次は、何かを失ったから、何かを得たのだと。
だからこそ、わたしは、この物語をフェアリーテイルだと感じる。
“永遠の命”を「付与」された、アイドルという存在
万次の宿命と木村拓哉の宿命は重なる。
三池崇史監督もそう公言しているし、そのような見立ては多い。わたし自身、この正月にあるサイトに寄稿した文章でそのようなことを書いた。
つまり、死ぬことが許されない万次は、木村拓哉であることをやめられない木村拓哉その人と二重写しになる。それが本作の醍醐味であるのは間違いない。
だが、少し時間が経つと、こうも思った。
万次の運命は、木村拓哉だけではなく、SMAP全体にも重なるのではないか。いや、もっと言えば、多くの人々に愛されるアイドルという存在はすべて、無限の住人なのではないか。
彼ら彼女らは、全員、ファンから永遠の生命を、ある意味、半ば強制的に「付与」されているのではないか。そのように思うのだ。