――「見たくないものを見ない権利がある」という主張は、法的にも根拠があるということですね。
宮川:その通りです。
ただし、ここで忘れてはならないのは、ママたちにも「公共の場で授乳する権利」、言い方を換えれば「公共の場で授乳する自由(以下、単に「授乳する自由」と記載。)」があるのではないか、ということです。
この自由は、憲法13条(「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」)が根拠になると考えられます。
「見たくないものを見ず、聞きたくないものを聞かない自由」と、「授乳する自由」、これらが衝突する状態になるわけです。人の「自由」や「権利」には、対立する利益があることが多いものなのです。
――「権利の衝突」について、分かりやすくご説明いただけますか。
宮川:例えば、マスコミでよく見受けられる例として「名誉毀損」があるでしょうか。ここでも「報道の自由」や「表現の自由」と「名誉権」が対立していて、よく裁判にもなっていますよね。
そしてこれは「公共の場での授乳」問題にしても同様で、こういった論争は「自由」や「権利」というものの“性質”に根ざしているがゆえに避けられない、ということもできるのです。
――「自由」や「権利」の“性質”ですか?ううーん、話が難しくなってきました。
宮川:「公共の場での授乳」に、話を戻してご説明しましょう。
「見たくないものを見ない権利」VS「授乳する権利」
宮川:「見たくないものを見ない権利」と「授乳する権利」という対立するふたつの「権利」や「自由」を考える時に、ではどちらか一方の「権利」は100%守られるべきものであって、もう一方の「権利」を100%否定するものであってもいいのかどうか。
突き詰めれば、「相手の『自由』を制限しても、自分の『自由』は守られるべき」なのかどうか?という問いに、行き着くのではないでしょうか。
そしてこの問題が、今回の論争の根本でもあるように思います。
――たしかに、この話題に関するネットのコメントも「是か非か」の“オール・オア・ナッシング”であふれているように感じます。
それが現役ママからすると怖いというか、追い詰められてしまうというか。
宮川:そもそも「自由」というのは、対立する「自由」が存在することが多いので、お互いにある程度はガマンしなければならない場合があるものなんですね。
これを、先ほどご紹介した最高裁の判例では、対立する利益と比べたうえで、自分の「自由」が侵害されることを「受忍しなければならないこともありうる」と述べています。
言うなれば、双方の「自由」や「権利」の“綱引き”みたいなもので、それぞれの状況によって、それぞれの尊重度合いが常に変わってくる。これが「自由」というものの“性質”であり「権利」というものの“性質”なのです。
話が抽象的になってきました。あらためて「公共の場での授乳」で想定される事案について、ケースごとに考えてみましょう。